竹生島と千歳祭神:響き合う二つの島と歌聖の御魂

三河湾に浮かぶ竹島が、なぜこれほどまでに神秘的で、人々の心を惹きつけるのか。その理由は、遥か遠い近江の竹生島(ちくぶしま)との精神的な繋がりと、この地を愛した歌聖・藤原俊成公の存在にあります。昭和の時代に結実した一つの神社創建の裏側には、歴史の波に埋もれかけた記憶を必死に手繰り寄せた、人々の熱いドラマが隠されていました。

歌の神を勧請した、若き国司の情熱

『八百富神社年譜』によると、藤原俊成公が竹生島の弁財天をこの地に勧請したのは養和元年(1181年)3月18日のこと。かつて三河守(国司)として赴任した俊成公が、竹谷蒲形の庄の開拓成就を願い、その島の姿が琵琶湖の竹生島に酷似していることから分霊を迎えたと伝えられています。

蒲郡風土記』の著者・伊藤天章氏は、俊成公が三河に赴任した久安元年(1145年)当時はまだ「顕広(あきひろ)」と名乗る32歳の青年であったことを指摘しています。当人が当時から弁財天を篤く信仰していたかという確証こそないものの、「弁財天が古くから『歌詠みの神(芸能の神)』として尊崇されていた事実を思えば、後に歌聖と仰がれる俊成公が深く崇拝していたことは十分に頷ける」と、著者らしい鋭くも温かい視点で考察しています。

出家ののち、68歳で果たした聖地への祈り

のちに仁安2年(1167年)に「俊成」と改名した公は、安元2年(1176年)に官職を辞して出家。「釈阿(しゃくあ)」と号し、専ら和歌の道に生きました。弁財天を勧請した養和元年は、まさにその出家後のことであり、俊成公68歳の円熟期にあたります。

91歳で世を去るまで和歌の美を追求し続けた俊成公にとって、竹島に弁財天を祀ることは、自身の信仰と、かつて治めた三河の地への報恩、そして歌道上達への祈りが混ざり合った、人生の集大成とも言える大事業だったのかもしれません。

昭和の宮中を動かした、千歳神社創建の舞台裏

時代は大きく下り、昭和6年(1931年)。竹島に俊成公を祭神とする千歳神社が創建されます。しかし、この復興は容易なものではありませんでした。『蒲郡風土記』には、当時の泥臭くも劇的な手続きの裏話が遺されています。

時の内務省や県の役所を動かすのは「たいへん、むつかしかった」とされますが、俊成公の後裔である歌道の家元・冷泉家や、入江皇太后太夫らの並々ならぬ尽力、そして何より貞明皇太后(大正天皇の皇后)直々のお声がかりがあったことで、内務省神社局の役人たちが慌てて決済の判を押したというのです。

この記念すべき創建に際し、近代短歌の巨星・佐々木信綱は「絶筆のつもり」で、あの名高き歌碑の文字を書き上げました。

歌人の国の司のみたまこもり千歳さかゆるこれの竹島

俊成公の御魂を讃え、島の永劫の繁栄を祈ったこの歌が示す通り、蒲郡の象徴たる竹島の美しさは、竹生島から引き継がれた神気と、俊成公という偉大な存在があってこそ、現代まで眩しく輝き続けている、と言えます。

俊成苑(竹島園地)
八百富神社五社巡り – 蒲郡の旅

参考文献
伊藤天章.『蒲郡風土記』.蒲郡新聞社.昭和51年.
神社を中心としたる宝飯郡史 – 国立国会図書館デジタルコレクション

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