文豪が愛した常磐館と、変わりゆく蒲郡の海が紡ぐ記憶

竹島水族館ラグーナテンボス、春の潮干狩りに形原温泉のあじさい祭り、さらには幻想的な夜光虫の輝きまで――。蒲郡の観光は、昭和、平成、そして令和へと、時代の移り変わりとともにその主役を変えてきました。

しかし、明治や大正の時代にまで時計の針を戻すと、そこには現在の隆盛の礎を築いた「原風景」が存在していました。

観光蒲郡の草分け「常磐館」と、菊池寛が描いた世界

『蒲郡風土記』の著者である伊藤天章師は、竹島常磐館(ときわかん)こそが「蒲郡の観光の草分け」であったと書き残していますとりわけ常磐館の名が全国に轟くきっかけとなったのは、菊池寛が執筆した小説『火華(ひばな)』の舞台となったことでした。作中に描かれ、多くの人々をこの地へと惹きつけることになります。

さらに、名だたる文人墨客もこの宿に足跡を残しています。高浜虚子もその一人でした。虚子が初めて蒲郡を訪れたのは、昭和2年の高野山からの帰り道のこと。その後、昭和14年2月に再訪を果たします。この時は、俳句結社「ホトトギス」が主催する記念すべき第1回「日本探勝会」の吟行地として、この蒲郡の地が選ばれたのでした。

「春の波小さき石に一寸踊り」

宿からおだやかな三河湾を見つめて詠まれたこの句は、同年の『ホトトギス』4月号に掲載され、当時の情景を今に伝えています。また虚子は、岡田耿陽氏の長子の誕生を祝い、「芽生えたりさし木接木を待たずとも」という句も贈りました。この句碑は、現在も三谷町の旧岡田家に静かに佇んでいます。

失われた絶景と、現代の護岸へ寄せる先達の想い

伊藤天章師は、常磐館の「東南の隅の部屋からの眺めは格別である」と大いに称賛していました。そこからは、かつて大きな松の木を戴いていた「かわうそ岩」が見え、絵画のような美しさを誇っていたといいます。

しかし、時代の進展は容赦なくその景色を変えていきました。戦後、周辺の養魚場が埋め立てられ、コンクリートの「逍遥道路」が整備されると、天章師は「風景ぶちこわしだ」と激しい憤りを隠しませんでした。「なんぼ戦争に負けて土地が狭くなったからとて、この辺くらいは昔のままに残しておいてほしかった。菊池寛もさぞ地下で、こんな筈ではなかったと小言を言っているであろう」と、無念の想いで章を結んでいます。

この『蒲郡風土記』が刊行されたのは、昭和34年8月31日のこと。そのわずか1ヶ月後、蒲郡の街は伊勢湾台風という未曾有の天災に見舞われ、そして沿岸部は甚大な被害を受けました。その後、住民の命と暮らしを守るためにさらなる護岸工事が進められ、かつての風光明媚な海岸線は姿を変えました。変わり果てた現代の海原を前に、今や天章師も菊池寛も、時代の必然として「仕方のないことだ」と、地下で穏やかに微笑み合っているのかもしれません。

菊池寛『火華』と常磐館 – 蒲郡の旅
岡田耿陽・句碑を巡る

参考文献
伊藤天章.『蒲郡風土記』.蒲郡新聞社.昭和51年.
高浜虚子全俳句集 上巻 – 国立国会図書館デジタルコレクション.

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