小久保幸一郎君之像:郷土の誇りと悲劇を今に伝える少年像
愛知県田原市(旧渥美町)の伊良湖神社参道に、1体の兵士像がひっそりと、しかし毅然と佇んでいます。その名は「故歩兵伍長小久保幸一郎君之像」。
昭和12年(1937年)、第二次上海事変の最前線で凄まじい奮戦の末に23歳の若さで散った、地元・伊良湖出身の兵士の生きた証であり、激動の時代に翻弄された郷土の歴史を今に伝える貴重なモニュメントです。
蚕糸(さんし)の指導者から、戦火の最前線へ
小久保幸一郎氏は、昭和10年(1935年)12月に徴兵により豊橋歩兵第18連隊に入隊しました。入隊前、彼は西尾市や岡崎市の蚕糸学校(当時の地域産業を支えた養蚕・製糸技術の学校)で学び、若き指導者として伊豆地方の養蚕農家を指導しました。1
しかし、昭和12年8月に第二次上海事変が勃発すると、再び召集(応召)を受け、豊橋連隊の第11中隊に配属。軽機関銃の分隊長として、戦乱の渦巻く上海へと出征することになります。2
「第4トーチカ」での命懸けの突破と全軍の模範
上海上陸後、小久保伍長の運命を決定づけたのが、9月9日の「軍工路・第4トーチカの戦い」でした。 敵の猛烈な銃火によって部隊全体が前進を阻まれる中、小久保伍長は射手とたった二人だけで、100メートルもの距離を身を挺して突出。決死の急襲を仕掛けて敵陣に肉薄し、自ら軽機関銃を操って敵の逆襲を撃砕しました。
指揮官が倒れ、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した戦場で部下を叱咤激励し続けた彼の勇猛果敢な行動は、部隊に最高栄誉である「上海派遣軍司令官からの感状(表彰状)」をもたらしました。3
しかしそのわずか20日後の9月29日、敵の堅陣へ迫る激しい戦闘の最中、一発の銃弾が彼の頭部を貫通。故郷の家族へ宛てた手紙を遺し、壮烈な戦死を遂げました。
松井石根大将が認めた「忠烈」の二文字
彼の死から2年後の1939年(昭和14年)、その抜群の功績と愛国心を称え、また若き指導者の死を悼む地元の人々や母校関係者によって、伊良湖神社にこの兵士像が建立されました。
台座の正面には、当時上海派遣軍の最高指揮官であった松井石根(まついいわね)陸軍大将の直筆による「忠烈」の二文字が深く刻み込まれています。さらに、彼がかつて学び、未来の産業を担う若者たちを指導していた西尾市や岡崎市の蚕糸学校の名も刻まれており、彼が単なる兵士ではなく、地域に愛された優秀な技術者・教育者であったことを静かに物語っています。




勇敢さという「動」が、死という「断絶」へ繋がる皮肉
映画『シン・レッド・ライン』で描かれるトーチカ攻撃や救出劇は、戦場の熱狂に呑み込まれた一種のトランス状態としての「勇敢さ」を象徴しています。上官がその高揚感を煽ることで、結果として多くの若者たちの死がもたらされました。
劇中、ガフ大尉から表彰を提案されたウェルシュ曹長がそれを拒絶したのは、そうした「勇敢さ」や「男らしさ」が、あっけない死という断絶に直結している構造を冷徹に見抜いていたからです。
この映画が描く不条理な構図は、小久保伍長をはじめとする多くの若い命が奪われていった、実際の戦争の悲劇的な構造そのものと言えます。
小久保幸一郎、応召から戦死まで
小久保幸一郎氏が1937(昭和12)年8月17日に入隊。そして、9月29日に上海の地で散るまでのわずか44日間の足跡を、松井郁次郎歩兵准尉が小久保氏の父親に送った手紙4をもとに時系列でまとめました。
【応召から出陣】 1937年8月17日〜8月28日
- 8月17日(入隊): 第二次上海事変の勃発に伴い召集(応召)を受ける。そして、地元・豊橋の歩兵第18連隊・第11中隊に入隊。軽機関銃を扱う「第一小隊第六分隊長」に任命される。
- 不眠不休の準備: 非常に慌ただしい動員や輸送業務の中、寝る間も惜しんで渾身の努力を続け、部隊の出陣準備を完璧に整える。
- 8月28日(出港): 広島の宇品港から輸送船に乗り、戦火の渦巻く上海へと向けて出航。
【上海敵前上陸と軍工路の激戦】 9月3日〜9月12日
- 9月3日(上陸): 陸軍の先陣を切って上海付近への敵前上陸を敢行。激しい銃撃戦の中へ身を投じる。
- 9月9日(第4トーチカの死闘): 軍工路沿いにある敵の最重要拠点「第4トーチカ」の攻略作戦に参加。
- 命懸けの奇襲: 敵の猛烈な銃火で部隊が前進できなくなる中、小久保氏は射手とたった二人だけで100メートルも前方へ突出し、敵へ猛射を浴びせて味方の進撃路を開く。
- 乱闘と死守: 敵陣へ最先頭で突入し、数名を刺殺、手榴弾を投擲。指揮官(鈴木少尉)が倒れ阿鼻叫喚となる戦場で、部下を叱咤激励しながら数時間の白兵戦を戦い抜く。
- 悲願の占領: 午後4時、ついに敵を撃滅して日章旗を掲げる。この奮戦により、部隊は軍司令官から「感状(最高栄誉の表彰)」を授与された。
【追撃戦と相次ぐ試練】 9月13日〜9月24日
- 9月13日: 退却を始めた中国軍を猛追。上海市政府を占領し、さらに西方へと進撃。
- 9月17日〜18日: 激しい豪雨の中を転進。連隊本部の警備や、戦死した戦友たちの遺体収容という過酷な任務にあたる。
- 9月23日: 頼みの綱であった中隊長代理(松井准尉)がコレラに感染し戦線を離脱。部隊は下士官(加藤伍長)をリーダーとして、極限の苦闘を続ける。
【最後の猛攻と壮絶なる最期】 9月25日〜9月29日
- 9月25日〜28日: 最前線部隊として「王丸房」の敵陣地を攻撃。4日間にわたる激戦の末、これを奪取。28日夕方には待望の新しい中隊長(永田大尉)を迎え、部隊の士気は再び最高潮に達する。
- 9月29日(戦死): 敵の堅固な陣地に向けて決死の猛攻を開始。午後2時頃、敵陣まであと数十メートルというところまで肉薄して奮戦している最中、一発の銃弾が頭部を貫通。 故郷・伊良湖を遠く離れた上海の戦場において、壮烈な最期を遂げた。
伊良湖半島の戦争遺跡マップ
参考文献
上海戦虬江碼頭付近の実戦記 : 歩兵第十八聯隊第十一中隊(梅田隊) – 国立国会図書館.
支那事変忠勇列伝 陸軍之部 第9巻 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
- 像台座部には「西尾蚕糸学校」「岡崎市 日龍蚕糸講習所」「三龍」「同窓会」の文字が残ります。
- 『上海戦虬江碼頭付近の実戦記 : 歩兵第十八聯隊第十一中隊(梅田隊) 』には「8月28日、広島の宇品港から「戦乱渦巻危急存亡の上海に急航す」と記されています。
- 18連隊第三大隊・飯田支隊としての感状。激戦の地「虬江碼頭」は、日本軍によって「飯田桟橋」と呼ばるようになります。
- 上海戦虬江碼頭付近の実戦記 : 歩兵第十八聯隊第十一中隊(梅田隊) – 国立国会図書館デジタルコレクション.