柳田國男逗留の地:感性が目覚めた伊良湖の夏と『遊海島記』

渥美半島の最先端、かつて孤高の美しさを誇った海辺の村に、一人の若き文人が滞在していました。のちに「日本民俗学の父」と呼ばれることになる柳田國男です。現在、伊良湖リゾート&コンベンションホテルの入口には、「柳田國男の逗留の地」と刻まれた石碑が静かに佇んでいます。まだ二十代前半の多感な青年だった彼が、この伊良湖の地で何を見つめ、何を感じていたのか、その足跡を辿ります。

明治の文人たちを魅了した理想郷。宮川春汀の吹聴から始まった旅

明治31年(1898年)7月上旬から9月上旬までの約2か月間、当時23歳でまだ「松岡」姓だった柳田は、伊良湖の網元・小久保惣三郎の離れに滞在していました。

柳田がこの遠い岬の地を訪れるきっかけとなったのは、現在の田原市福江町にあたる畠村出身の挿絵画家・宮川春汀でした。春汀は、故郷である伊良湖の美しさを、柳田をはじめ田山花袋太田玉茗国木田独歩泉鏡花といった明治のきら星のごとき文人たちに熱っぽく語り聞かせたといいます。彼らの心を揺さぶったその情景は、まさに文学者たちの憧れの地となったのです。

『遊海島記』にみる和歌の精神と、西欧ロマン主義の融合

伊良湖での濃密な時間を綴った柳田の紀行文『遊海島記』は、かつてこの地に配流された麻続王(おみのおおきみ)が、万葉集に遺した悲劇の歌から幕を開けます。

「伊勢の海の清き渚に遊び、類無き夕凪夕月夜の風情を身に泌め……三河の伊良湖岬に増したる慮は無かるべし」

若き日の柳田は、松浦辰男の塾で和歌を学び、歌人としての才能を花開かせつつありました。同時に、イギリスの詩人バイロンの『チャイルド・ハロルドの巡礼』を愛読するなど、西欧のロマン主義にも深く傾倒していたのです。

大外海の荒波と、対照的に穏やかな内海の白帆。黄昏時に仄めく漁火を見つめながら、彼はバイロン流の「旅の愁い」と、日本伝統の「もののあわれ」を融合させ、目の前の風景に重ね合わせました。このとき和歌を通して、歴史の表舞台から消え去った「過去の漂泊者の心」に深く寄り添おうとした文学的感性こそが、のちに文字を持たない一般の生活者=「常民」の声を拾い上げる民俗学へと彼を向かわせる原動力となったのです。

名詩「椰子の実」の誕生と、消えゆく平和への祈り

この滞在中、柳田はある劇的な光景に出会います。嵐が去った翌朝の浜辺に、遥か南の島から一本の椰子の実が流れ着いていたのです。白く生々しいその実を割りながら、彼はまだ見ぬ南洋への切ない郷愁に胸を焦がしました。この情緒豊かな体験談を親友の島崎藤村に語ったことが、のちに日本中で愛唱される抒情詩『椰子の実』の誕生へと繋がっていきます。

しかし、美しい夢のような滞在ののち、東京へ戻った柳田の元に切ない知らせが届きます。伊勢湾の海峡に軍事砲台(伊良湖射場など)が築かれる計画が進み、静かな漁村の暮らしが脅かされているという現実でした。柳田は『遊海島記』の最後を、次のような悲痛な一文で結んでいます。

「伊良湖も亦如何あらん。願はしきものは平和なり。」

時代が日露戦争へと突き進み、軍事化の波に飲み込まれていく伊良湖の未来を憂いた、青年・柳田の切実な願い。この「願はしきものは平和なり」という言葉は、全村移転から歳月を経たのち、伊良湖集落移転100周年記念碑の碑文として、今もこの地に深く刻み込まれています。

「柳田國男逗留の地」碑の地図

参考文献
天野 敏規.『授業に役立つ!!渥美半島の歴史』.令和3年.田原市博物館.
『遊海島記』定本柳田国男集 第2巻 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
定本柳田国男集 第1巻 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
『故郷七十年』柳田国男 故郷七十年.青空文庫.

田原市の戦争遺跡・旧陸軍試験場跡を巡る完全ガイド – 田原の旅

 

 

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