田山花袋が歩き、惜しんだ「伊良湖岬」の原風景
今でこそ観光地として名高い渥美半島の先端ですが、明治の文豪たちを惹きつけたのは、水墨画の世界のように静寂で、最果ての情緒が漂う美しさでした。のちに自然主義文学を代表する作家となる田山花袋も、この地に魅了された一人です。しかし、彼が目にしたのは、美しき原風景が近代化と軍事の波に飲み込まれていく、時代の転換期そのものでした。
柳田國男を追っての旅。宇津江坂から見渡す三河湾の情景
明治31年(1898年)、当時27歳だった田山花袋は、豊橋から田原、そして渥美半島へと旅に出ました。また、この旅は、一足先に伊良湖を訪れ、その美しさを伝えていた若き日の松岡國男(のちの柳田國男)の足跡を追うためのものだったと言われています。
花袋は、紀行文『伊良湖崎』の冒頭で「田原から宇津江坂まで二里、此処に来て、私は再び海と相対した。」と記しています。そして、現代でも国道259号を走ると、宇津江町のあたりから視界が開け、美しい海沿いの景色が広がります。花袋はこれを、東海幹線の蒲郡駅から展望した衣ヶ浦(衣浦湾)を、ちょうどその反対方面から見たような形だと表現し、対岸の地との地理的なつながりを楽しんでいました。
さらに半島を進み、かつての畠村(現在の福江町周辺)に至った際、同行した友人は「日本にも、かうした感じのする村はあまり沢山はない。何うしても、支那の詩にでもありそうな気がするところだ……」と感嘆しました。それほどまでに、当時の渥美半島には大陸の古典詩に描かれるような、世俗から離れた美しき孤高の風景が残されていたのです。
重なり合う記憶と、消え去った伊良湖村への哀歌
しかし、花袋がこの美しい村を訪れた明治30年代前半は、まさに時代の節目でした。明治30年には伊良湖射場の建設が決定し、明治34年(1901年)に完成。日本中が明治維新の昂揚感と楽観主義に沸く中で、水墨画のような海辺の村は、国家の要請によって急速に変貌を遂げようとしていました。
のちに発表された作品の中で、花袋はかつて訪れた美しい風景と、後年にその地を回想するシーンを重ね合わせています。そして、軍事要塞化によって激変した姿を、次のように深く痛惜しました。
「その眺望は、その風景は、以前として、元のままであろうけれども、しかも、その伊良湖の村、私の十日ほどいた伊良湖の村は、全く見ることが出来なくなって了った。何故と云ふのに、そこは、要塞演習地のために取払われて、その背後に当たる日出の一村にすっかり合併させられて了ったからである。丁度その時分、吉江孤雁氏が其処に遊んで、その村の破壊されたさまをその文章に書いたのを私はみたことがあった。私は悲しいやうな気がした。」
天下の絶勝に忍び寄る、近代化の「影」
花袋は「伊良湖岬は、天下の絶勝と言っても、決して溢美(褒めすぎ)ではなかった」と、その圧倒的な自然の美を称賛し続けました。
しかし、打ち寄せる白波や孤独な岬の美しさを瑞々しく描写しながらも、彼の視線は、立ち入り禁止の看板や破壊されていく古い並び家など、少しずつ見え隠れする軍事化の影を確かに捉えていたのです。
美しき自然の賛歌であると同時に、消えゆくものへの悲歌でもある『伊良湖崎』。そこには、国家の荒波に呑まれていった地方の現実が、旅人の目線から今も生々しく書き残されています。
*花袋と柳田は、立馬崎や古山、恋路ヶ浜などを散策しました。その後、福江から亀崎へと向かったと言われます。また、大正10年(1921年)1月に家族とともに再訪しました。『伊良湖の石門』には、角上楼で食事をし、かつて(明治31年に)角上楼で柳田、太田玉茗と滞在したことを思い起こすシーンが記されています。また、『伊良湖崎』文中の「こゝらのことに詳しい友達」とは、畠村(福江町)出身の挿絵画家・宮川春汀だといわれます。
田山花袋『伊良湖岬』のシーン




- 「砂山を越せば、美しい恋路ヶ浜」
- 「越戸の大山を主峰とした小さな山脈で掩」
- 「神島の一青螺は怒涛の中にとはに聳えて」
- 「その汽船の甲坂の上から見た渥美半島が懐かしかった」
時代の昂揚と村の移転。渥美半島に刻まれた「伊良湖射場」の記憶
柳田國男逗留の地:感性が目覚めた伊良湖の夏と『遊海島記』
参考文献
田山花袋.『伊良湖岬』.青空文庫.
黒猫 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
渥美町史 歴史編 下巻 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
天野 敏規.『授業に役立つ!!渥美半島の歴史』.令和3年.田原市博物館.

