六階建:渥美半島を貫いた巨大射場と民の暮らし

田戸神社前のバス停から、のどかな風景が広がる県道421号線を西へと直進すると、突如として周囲の景観から際立つ高いビルが目に飛び込んできます。これこそが、かつてこの地に存在した陸軍技術研究所伊良湖試験場(伊良湖射場)の象徴であり、通称「六階建」と呼ばれた気象塔兼展望塔です。激動の時代を駆け抜け、現在は平和のシンボルとして佇むこの巨大遺構と、地域の人々の暮らしの軌跡を辿ります。

弾道を追い続けた「六階建」と、半島を貫く10キロの射線

この「六階建」が建設されたのは、昭和5年(1930年)のこと。当時としては異例の高層建築であり、ここから砲弾の弾道や風速、風向きといった精密な観測が行われていました。建物の前方(南側)には新たな砲床が築かれており、ここから伊良湖岬の方角に向けて数々の巨大な砲弾が放たれたのです。(当初の砲床は、田戸神社の南側に位置していました)。

建物の近くには、今も2階建ての無線電信所が姿を留めています。ここでは、周辺や洋上に点在していた観測所や監的所との緊密な連絡が行われていました。当時の陸軍における砲弾実験や諸元の測定は、ごく一部の例外を除いて、そのほとんどがこの伊良湖射場で行われていたといわれており、まさに日本の軍事技術の中枢がここにありました。

蒲郡からの海上輸送と、豊かな海・山を縛った軍事規制

試験に用いられる巨大な大砲の砲身は、遠く離れた工廠で製造されたのち、貨車に揺られてまずは蒲郡へと運ばれました。そこからは船に積み替えられ、三河湾を渡ってここ伊良湖へと運び込まれたといいます。

現在の県道418号線(小中山伊良湖線)に沿った側道上が、かつての「射線(砲弾が飛ぶルート)」でした。その距離は、名勝・恋路ヶ浜までおよそ10キロ。さらにその先の海上までもが実験場として使用されていました。

この広大な射線の存在は、地域住民の生活に大きな影を落とします。地引網をはじめとする沿岸漁業は厳しく制限されました。また、西山地域の山林への入山も規制されたため、当時の貴重な燃料であった薪などの自給燃料が不足し、日々の暮らしは困窮を極めました。

その一方で、射場施設での雇用が生まれたり、飛び散った弾丸の破片の払い下げ(買い取り)が行われたりといった、軍に依存せざるを得ない複雑な地域経済の側面も存在していました。

反対運動が守った平穏。戦争の歴史を語り継ぐ平和の象徴

終戦を迎えたのちの昭和27年(1952年)、この一帯に再び激震が走ります。当時の警察予備隊(のちの保安隊、現在の自衛隊.)による、迫撃砲試験場の候補地としてこの場所が浮上したのです。

再び故郷が轟音に包まれるかもしれない――。その危機に対し、地域住民からは「強力な反対運動」が巻き起こりました。その人々の平和への強い意志によってこの計画は撤回されました。そして、再びこの地が戦火の実験場として使われることはありませんでした。

激動の時代を経て、今も渥美半島の空に聳え立つ「六階建」。それは、かつて国家の思惑に翻弄された戦争の記憶を伝えると同時に、住民たちが自らの手で守り抜いた、静かで平和な日常の大切さを象徴し続けています。

六階建と無線電信所の画像

伊良湖半島の戦争遺跡マップ

田原市の戦争遺跡・戦争関連史跡を巡る完全ガイド
時代の昂揚と村の移転。渥美半島に刻まれた「伊良湖射場」の記憶

参考文献
「伝えていきたい平和の尊さ!」広報たはら.2012年8月1日号.
『田原の文化財ガイドⅤ.渥美半島の戦争遺跡』.田原市教育委員会.
「伊良湖射場と住民」渥美町史 歴史編 下巻 – 国立国会図書館デジタルコレクション.

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です