時代の昂揚と村の移転。渥美半島に刻まれた「伊良湖射場」の記憶

明治という時代が持っていた、近代国家への新鮮な昂揚感。その光と影を今に伝える遺構が、渥美半島の先端に静かに眠っています。かつてこの地に置かれた陸軍技術研究所伊良湖試験場(伊良湖射場)は、日本の近代化と軍事国家への歩みを文字通り体現する場所でした。激動の時代に翻弄された地域の歴史と、今も残るかすかな足跡を辿ります。

下志津原からの転換。大口径化する火砲と新試験場の選定

日本陸軍が創設された明治4年(1871年)から明治20年(1887年)ごろまで、火砲の性能調査や射撃データにあたる射表編纂の多くは、千葉県下志津原演習場で行われていました。しかし、この演習場では5000メートル以上の射撃を行うことができませんでした。時代とともに進む火砲の大口径化にともない、陸軍はより広大な新たな試験場の選定に迫られることになります。

明治24年(1891年)3月、陸軍砲兵会議は適地候補として千葉県、そして伊良湖から静岡県にかけての遠州灘沿岸を選定しました。その後、明治30年(1897年)に試験場地調査が行われました。当時は対ロシア戦を見据えて軍備拡充を急いでいた時期でした。また、国産の30口径27センチカノン砲(加農砲)にいたっては、飛距離が14850メートルに達するほどに進化を遂げていました。長距離射場の確保は、まさに国家の至上命令だったのです。

候補地となった伊良湖は、射程が1万メートルギリギリであることや、重い火砲器材を船から陸揚げする揚陸作業に難があるという弱点もありました。しかし、それを補って余りある「用地取得の容易さ」が決定打となり、この地に試験場が建設されることとなったのです。

日露戦争の熱狂と、故郷を追われた伊良湖村の決断

こうして明治34年(1901年)、渥美半島の最先端に伊良湖射場が設置されました。当時は、日露戦争へと向かう激動の時代。坂の上の雲を目指すかのように、近代的な「国家」や「国民」という響きに日本中が根拠なき楽観主義と高揚感を抱いていた頃です。

しかし、その国家の要請は、地域に生きる人々の暮らしを一変させました。戦争の足音が近づく1905年、試験場の拡張に伴い伊良湖・西山地区の土地買収が決定。翌1906年には、伊良湖村の全村移転という重い決断を迫られることになります。開設からわずか5年、日露戦争の勝利がもたらした楽観視は、日本をさらに軍事国家の道へと突き動かしていきました。

半島を縦断する一大ネットワーク。最先端の軍事要塞

伊良湖射場の中枢部は、現在の小中山町にある田戸神社付近に置かれました。ここを原点(起点)として、伊良湖岬の方角に向けて数々の砲弾が発射されたのです。

当時の中枢部には、大砲を据える砲床のほか、気象答兼展望塔、無線電信室などがありました。さらには物資を運ぶ軽便鉄道まで敷設されるという、最先端の施設群が誇られていました。それだけではありません。周辺には砲弾の威力を計る「ベトン」と呼ばれる破壊力試験施設や観測所、警戒哨が張り巡らされ、そのネットワークは遠く伊勢湾に浮かぶ神島にまで及んでいたといいます。

静かな集落に佇む、戦火の記憶を伝える遺構たち

明治34年10月に田戸神社の前に試射場の建物が建てられてから、120年以上の時が流れました。現在、神社の参道入口には当時の門柱がひっそりと佇み、境内には「信管検査施設兼展望台」の跡が歴史の重みを湛えています。

また、近くの小中山児童公園には、警戒哨舎が今も姿を留めています。その傍らに移設された「陸軍省所轄地」と刻まれた境界石柱は、この静かな地がかつて国家の最前線であった事実を、無言のまま私たちに語りかけています。

伊良湖射場 警戒哨舎

伊良湖半島の戦争遺跡マップ

戦争遺跡 アーカイブ – 道中の点検
外浜観測所:日出町の岩礁に佇む赤煉瓦の記憶
福江観測所:半島の弾道を見守った古田町の山中に眠る赤煉瓦

参考文献
『伊良湖集落移転100周年記念誌 伊良湖誌』.2006年.伊良湖自治会.
「伝えていきたい平和の尊さ!」広報たはら.2012年8月1日号.
『田原の文化財ガイドⅤ.渥美半島の戦争遺跡』.田原市教育委員会.
「伊良湖射場と住民」渥美町史 歴史編 下巻 – 国立国会図書館デジタルコレクション.

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