西行法師と伊良湖:大仏再建の願いを胸に海を渡った足跡
文治2年(1186年)、平安時代末期の激動を生き抜いた漂泊の歌人・西行法師は、ある重大な使命を帯びて奥州への果てしない旅路へと就きました。その途中、伊勢二見ヶ浦から舟で伊勢湾の荒波を渡り、降り立ったのがここ伊良湖の地でした。
西行が目指したのは、日本最大の金の産出地であった奥州平泉。治承4年(1180年)の平重衡による平氏の南都焼討(なんとやきうち)によって灰燼(かいじん)に帰した、東大寺の大仏を再建するためです。大仏の表面を光輝く黄金で覆うための「砂金」を募る(勧進する)という、国の行く末を左右する大事業でした。
なぜ、一人の出家者にすぎない西行がこれほど重要な大役に選ばれたのか。それには、彼が奥州の覇者・奥州藤原氏と遠い血縁関係にあったこと、過去にも奥州への渡航経験があったこと、そして何より「歌聖」としての高い知名度があったからだと言われています。
無事に平泉へ辿り着いた西行は、時の当主・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)と対面します。秀衡は西行の熱意に深く心打たれ、そして大仏再建のための膨大な砂金を東大寺に寄進することを快く約束しました。日本の信仰の象徴が蘇る歴史の裏には、伊良湖の海を渡った西行の確かな足跡があったのです。
緑地に佇む万葉の残り香と、白洲正子が紡ぐ「西行」
現在、伊良湖フェリーターミナル近くに広がる伊良湖緑地には、この西行の歴史的足跡を顕彰する歌碑、足跡碑、そして白洲正子の言葉を引用した「伊良湖と西行法師」の碑が静かに佇んでいます。
西行の歌碑には、鎌倉時代の秀歌集『夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)』に収められた、次の一首が刻まれています。
「浪もなし いらごが崎にこぎいでて われからつける わかめかれあま」 (波も穏やかな伊良湖が崎に舟を漕ぎ出して、海女たちがワカメを刈り採っていることよ)
この地を訪れた西行が目にしたであろう、穏やかな伊良湖の海の情景と、そしてたくましくも美しい海女たちの暮らしの営みが、瑞々しい調べとなって今も緑地に響き渡るようです。
故郷の文字と足跡が紡ぐ、町から市へのバトン
西行の歌碑と、ユニークな「足跡碑」が設置されたのは、平成17年(2005年)9月のことです。この場所の周辺には、かつて伊良湖岬の古くからの船着場があったと伝えられており、まさに西行が第一歩を記した歴史の聖地でもあります。
また、この足跡碑に彫られた足の形のモデルは、当時の地元の住人である河合さんという方です。過去の高名な歴史をただ遠いものとして祀るのではなく、今を生きる地域の人々の身体を通じて現代へと繋ぎ止めるという、どこか温かくユーモラスな工夫が凝らされています。
そして、この2つの碑が建てられた平成17年9月という時期は、当時の渥美町が田原市と合併するわずか1ヶ月前のことでした。激動の歴史を見守ってきた田原市文化協会と旧渥美町文化協会が共同で手掛けたこの記念碑は、旧町としての最後の誇りであり、同時に、新しく生まれ変わる田原市の未来の発展へと力強く踏み出した、歴史的な一歩でもあったのです。





