売春防止法と形原温泉の転換期|見番・置屋というコミュニティ

昭和31年(1956年)の売春防止法成立から昭和33年(1958年)の完全施行にいたる2年間、形原温泉は大きな転換期を迎えました。法改正を背景とした業態変更と、夜の温泉街の活況を支えた独自のシステムについてまとめます。

昭和31年〜33年の形原温泉の変化

売春防止法の制定と赤線の完全廃止に伴い、形原町内の業者も形原駅周辺から温泉街へと拠点を移動し、そして旅館や置屋へと一斉に転業しました。

当時、形原温泉において旅館数が急増した背景には、高度経済成長期に伴う観光化や地場産業(繊維業・漁業など)の活況だけでなく、この法改正による「駅前から温泉街への衣替え(上がり)」という業態変更の側面が強く影響しています。

温泉街のコントロールタワー「見番」と、芸を磨いた女性たちの「置屋」

形原温泉の全盛期から約15年前(2011年頃)まで存在していた「見番(けんばん)」と「置屋(おきや)」は、温泉街の経済と文化を裏で統括する重要なシステムでした。1

見番・芸妓組合(総合事務局)

旅館からの依頼に応じて芸妓を各宴席へバランスよく派遣する「取次」や、花代(玉代)の計算・集金を一括して行う「会計」、さらに芸妓の育成や風紀の「取締」を担うコントロールタワーでした。さらに、行政や警察に対し、「伝統芸能を披露する公的な組合である」という建前(法的防壁)を維持する役割も果たしていました。

置屋(芸妓の配属先)

プロ意識を持った女性たちが疑似家族的な強い絆で結ばれたコミュニティであり、そしてお座敷を盛り上げる社交の場として機能していました。少ないところでは1人という置屋もありました。また、芸妓が新しく置屋を開業できる制度もありました。

赤線完全廃止に伴い、かつて形原の海岸線にあった遊郭や置屋は、形原温泉周辺へと拠点を移しました。温泉街周辺に建てられた置屋は、周囲の街並みに溶け込むような「普通の民家」の造りをしていました。その一方で見番には、彼女たちが日々芸の手ほどきを受け、踊りや唄の腕を磨くためのお稽古用の舞台が備えられていました。

地域経済を循環させたもう一つの「富の分配」

置屋や見番の内部は、お母さん(女将)や姉さん、妹という「擬似家族」のような強い絆で結ばれていることが多く、そして、愚痴を言い合い、支え合って生きる、活気のある女性コミュニティでもありました。

当事者たちの記憶に「陰湿さ」はなく、華やかで楽しい社交の場として語り継がれています。また、地場産業で富を得た地元の有力者たちが、特定の女性を「妾(めかけ)」として囲い近郊に家を建てるなどの行為は、現代の価値観では測れない一種のセーフティネットであり、都市部に資金を流出させず地域内で循環させる「ローカルな富の分配システム」として機能していました。

こうした関係性は、必ずしも「弱者の搾取」という暗いものではなく、お互いの利害や情愛が一致した、ある種の大人の契約関係として、地域社会にも「公然の秘密」としてある程度受け入れられていた一面があります。

温泉街の痕跡を訪ねて

戦後の「売春防止法」や「赤線廃止」という国主導の大きな法律の網は、表向きの社会をキレイに整えました。それで世の中はキレイになったのでしょうか?たとえば、それ以降も、そして今も、貧困という問題は解消されずに、わたしたちの隣に存在します。女性の立場は改善されたのでしょうか?

形原温泉では、人々の優しさや、大らかさや、たくましさで、多くの困難を乗り越えようとしていました。その痕跡が風土として今も残っているように感じます。

参考文献
売春防止法と赤線廃止の解説 Gemini.
大川直美.2004年.「私たちにとって『売買春』とは何か― 歴史的視点から ―」明治学院大学 卒業論文.(pdf)

  1. 形原温泉には、喜楽、三楽、鈴木、たつみ、玉木、ふくよし、梅月、三好、吉野家、よしとみ、などの置屋がありました。

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