観光蒲郡の夜明け、滝信四郎の美学が宿る「竹島館」の誕生
昭和36年(1961年)の航空写真を覗くと、現在の蒲郡クラシックホテル・バンケットホール西側の駐車場あたりには、かつて数棟の建物が身を寄せ合うように建っていました。道路を挟んでプールを併設したL字型に見える建物、そしてその北側には大きなヘルスセンター。海岸線の埋め立てが始まろうとする、古き良きマリンロード沿いの風景です。
昭和35年発行の『蒲郡風土記』には、「蒲郡ホテルを下ったところに、共楽館がある。その前に竹島館がある」と記されています。このL字型の建物こそが、かつて庶民の憩いの場として大繁盛した竹島館でした。
躍進する観光都市、潮風に響く三味線の音と近代化への足音
昭和5年(1930年)に大島遊園地が開園したのを皮切りに、蒲郡は観光躍進期を迎えます。1932年(昭和7年)には竹島橋が架橋され、翌年に共楽館が開業。昭和9年には蒲郡ホテルが竣工し、そして昭和13年(1938年)に竹島館が完成しました。
『蒲郡市誌』によると、当時の市内には料理屋125軒、芸妓置屋62軒(芸妓221名)、遊技場14ヶ所、劇場6ヶ所がひしめき合っていたといいます。まさに街全体が華やかな熱気に包まれていた時代でした。『蒲郡風土記』の著者である伊藤天章師は、この近代化を牽引した地元実業家・滝信四郎氏を「経済観念の大変進んだ人」「どうしたら金を生かすことが出来るかを考えた偉材であった」と、最大の賛辞を送っています。
「美しい観光地」を夢見て、庶民のために建てられた大衆旅館
滝信四郎氏が目指したのは、誰もが魅了される美しい一大リゾートの建設でした。かつて常磐館の前には「田舎たらしいヨシズの売店があって、フンドシやサルマタを、万国旗と間違って、張りめぐらされてはたまったものではない。1」という有様だったといいます。氏は、洗練された景観づくりの一環として竹島橋を架け、共楽館を新設していきました。
しかし当時、蒲郡には大衆向けの宿泊施設が不足していました。そこで滝氏は一般の旅行者が気軽に泊まれる竹島館の建設を計画します。周囲からは「庶民経営の売店を締め出して独占経営するつもりだ。」と激しい反対の声が上がりました。
そこで滝信四郎氏は、完成した竹島館を「アッサリ蒲郡町へ寄附」するという驚くべき行動に出ます。「年々賃借料(当時2400円)を支払うから、その金で遊園地の清掃や修理をしてほしい。」という私心なき提案に、反対派の声は瞬く間に納得へと変わったのです。
豊川講の信者で賑わった栄華、そして激動の時代を越えて
こうして誕生した竹島館は、瞬く間に大繁盛を極めました。特に豊川稲荷を参拝する「豊川講(とよかわこう)」の一行にとって格好の宿泊施設となり、一度に200〜300人もの団体客を収容したといわれます。白砂青松の海岸線を眺めながら、旅人たちが旅の疲れを癒やした往時の賑わいが目に浮かぶようです。
その後、伊藤天章師が「戦争というヘンな災難が加わって」と振り返るように、激動の時代を経て周辺の様相は一変し、多くの老舗旅館が姿を消していきました。しかし、滝氏が守ろうとした竹島周辺の美しい景観と観光のDNAは絶えることなく現代へ引き継がれ、今なお蒲郡第一の観光スポットとして、訪れる人々を温かく迎え入れています。




参考文献、引用
伊藤天章.『蒲郡風土記』.蒲郡新聞社.昭和51年.
蒲郡市博物館編.『写真集 明治・大正・昭和 思い出の蒲郡』.令和4年
「地図・空中写真閲覧サービス」地図・空中写真閲覧サービス.
中部財界 21(11)(387) – 国立国会図書館デジタルコレクション.
蒲郡市誌 本編 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
全国著名旅館大鑑 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
三谷・弘法山の「子安弘法大師像」:願いと奇跡 – 蒲郡の旅.
潮風が運ぶ島の記憶―「仙境竹島の塩湯治」と架橋の物語.
