潮風が運ぶ島の記憶―「仙境竹島の塩湯治」と架橋の物語
三河湾にぽつりと浮かぶ緑豊かな竹島。今では誰もが当たり前のように渡るあの竹島橋ですが、その誕生の背後には、地域の発展を願った一人の偉人の無私の精神と、今では語り継ぐ人も少なくなった人間味あふれる秘話が隠されています。
滝信四郎翁の情熱が架けた「一三七六尺」の架け橋
昭和6年(1931年)の秋、竹島の風景を大きく変える大工事が始まりました。それまで船でしか渡れなかった島へ架けられた竹島橋は、着工からわずか半年という驚異的な速さで、長さ1376尺(約417メートル)の姿を現したのです。この莫大な工費を私財から投じたのが、地元の発展に尽力した滝信四郎翁でした。
信四郎翁の熱意は橋だけに留まりません。さらに「観光地にふさわしくない」と、海岸にあった石炭船の荷揚げ場を移設させ、その跡地を埋め立てて町へ寄付しました。竹島園地を整備し、蒲郡ホテルの完成も翁なくして成し得ませんでした。現代に続く「観光地・蒲郡」の基礎は、まさにこの時に築かれたのです。
『蒲郡風土記』に遺された、忘れ去られし架橋の秘話
『蒲郡風土記』の著者・伊藤天章師は、書籍の中で興味深いエピソードを明かしています。「これほどの名橋でありながら、いつ、誰が作ったのかという記録が何一つなかった。だからやかましく言って、やっと記録を橋脚にはめ込んでもらったのだ。」という記述からは、歴史を後世に正しく残そうとした著者の執念が伝わってきます。
また、橋が建設中だった昭和6年10月、千歳神社の鎮座式に祭主として招かれた高貴な公家・冷泉為系伯爵が、足元を滑らせて海へ転落するという事件が起きました。大慌ての中で伯爵を背負い、常盤館へと送り届けたのが、地元の鈴木平吉氏です。そんな大騒動の記憶も、時の流れとともに人々の頭からすっかり消え去ってしまったと、著者は一抹の寂しさを滲ませています。
よしず張りの松林に煙が立ち上る、明治の「塩湯治」
さらに時代を遡り、まだ橋がなかった明治20年(1887年)ごろ。当時の竹島周辺は、まさに「仙境」と呼ぶにふさわしい別天地でした。篠津の美しい松林の中に「よしず」を張り巡らせ、集めた落ち葉を燃やしては、汲み上げた海水を大きな釜で沸かしていました。
波の音を聞きながら、潮の香りが満ちる湯に身を浸す「塩湯治(しおとうじ)」。その素朴でありながら贅沢な風情。それは、近代的な観光地へと脱皮する前の、蒲郡が持っていた最も純粋な自然の恵みの姿だったのかもしれません。現代の洗練されたリゾート地としての顔の裏には、こうした温かな白煙が立ち上る、静かな仙境の記憶が眠っています。






竹島橋は昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で一部流出しまが、翌年には復元されました。現在の竹島橋は、昭和61年2月に架け替えられました。手すりは軽合金制になり、全長387.3m、幅員4.3m、橋の両側には20mごとに40基の水銀灯が灯る橋に生まれ変わりました。(広報がまごおり(昭和61年4月1号)「新竹島橋が完成」,「竹島橋 メモリー」)
竹島の地図
八百富神社五社巡り – 蒲郡の旅.
俊成苑(竹島園地).
海に浮かぶ祈りの森。国の天然記念物「八百富神社の社叢」.
参考文献
伊藤天章.『蒲郡風土記』.蒲郡新聞社.昭和51年.
蒲郡市誌 本編 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
蒲郡市三十年史 – 国立国会図書館デジタルコレクション.