関口観音堂址:消え去りし堂宇に漂う聖なる息吹

豊川市長沢町大榎の旧東海道沿い。かつて旅人たちが足を止め、手を合わせた「関口観音堂址」が、今はその佇まいを小さく残すのみとなりながらも、あたりを清らかな仏性の空気で優しく包み込んでいます。(地名から「大榎観音堂址」とも称されます)

宿場町の端に始まった、古刹の黎明

関口観音は、もともと東海道の入口にあたる長沢村関屋の西端に位置していたといわれます。『音羽町誌』には、かつてガソリンスタンドがあった国道の北側付近とされながらも「遺跡らしきものは何もない」と記されています。当時は「大鰻山 関口寺」と称した大寺院であったと伝えられます。

「関口観音由緒記」によれば、永仁年中(1293年)、讃岐国大内郡の領主であった番場太郎致由が、春日御作(一説には聖徳太子作とも)の観世音菩薩とともにこの地に留まり、一宇を建てたのが始まりです。この番場太郎致由は、のちに登屋ヶ根城を築城し、赤石神社を創建したとも伝わる、地域に深く根ざした人物でした。

激動の戦火と、大榎の地への移転

しかし、応仁の乱の激動の中で一族は滅亡。さらに永禄3年(1560年)5月、世にいう桶狭間の戦いの前後、この地域を襲った激しい兵火によって堂宇は焼失してしまいます。本尊である観音像は難を逃れ、同じ年のうちに長沢大榎の地へと移されました。これこそが、今に名を残す「関口観音堂址」です。(移転時期については元禄2年とする説もあります)。

時が流れ、昭和22年(1947年)頃に老朽化のため建物は取り壊されることとなります。そして、本尊は近くの宝樹院へと遷されました。

馬を狂わせた観音の神威と、粕谷磯丸の歌碑

現在の本堂跡の敷地内には、新しく建てられた高さ77センチの瑞々しい観音像が佇みます。入口には「観世音菩薩」と刻まれた石碑が毅然と建ちます。そしてその傍らには、伊良湖の庶民派歌人として知られる粕谷磯丸の「みほとけ」の歌碑がひっそりと残されています。

この歌碑には、東海道の宿場町ならではの不思議な伝承が秘められています。ある時、旅人がこの観音堂の前を不遜にも通り過ぎようとしたところ、突然乗っていた馬が暴れ出して落馬。そのまま重い病の床に臥せってしまいました。人々はこれを「観音様のとがめ(神罰)」と恐れおののきます。そこで弘化3年(1846年)、当時の住職であった妙香尼が観音の怒りを鎮め、行き交う旅人を守るために粕谷磯丸に歌を依頼し、この地に刻んだといわれています。

「あふげ人衆生さいどにたちたまふ、このみほとけのかかるみかげを」 (仰ぎ見よ、人々を救うために立たれている、このみほとけの尊いお姿を)

かつて多くの旅人が往来し、畏怖と信仰を集めた旧東海道の要所。堂宇そのものは形を失いましたが、残された観音像と磯丸の歌碑は、今も変わらずこの場所を訪れる人々の心を穏やかに見守っています。

関口観音堂址の地図

参考文献
音羽町誌 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
「磯丸みほとけ歌碑」愛知県歴史の道調査報告書 1 – 国立国会図書館デジタルコレクション.

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です