立信寺:深草円空立信上人の開基と河原屋仏

東名高速道路と名鉄名古屋本線、そして国道1号線が交差する交通の要衝。その喧騒を背にするように、山裾に静かに佇むのが立信寺りゅうしんじ)です。かつて名鉄や国道が開通する以前は、旧東海道に立つ立信寺常夜灯から、真っ直ぐに美しい参道が伸びていたといわれます。

深草円空上人の開基と、聖なる参道

立信寺の歩みは、鎌倉時代の文永9年(1272年)にまで遡ります。浄土宗深草派の宗祖である深草円空立信上人によって開基されたと伝えられ、参道には今も「派祖 円空上人舊跡」の碑が凛として建ち、往時の聖性を伝えています。古くは長沢村字石塚の地に一宇が結ばれ、それがこの名刹の始まりとなりました。

天下を巡った「河原屋仏」の数奇な運命

かつて当寺の開基当時の本尊であった阿弥陀如来像は、恵心僧都の作と伝わるものでした。この仏像は、法然上人後白河法皇の勅願により御髪18茎を胎内に収めた、極めて尊い「河原屋仏」であったといわれています。

京都の上賀茂神社近くに安置され、後の百万遍知恩寺の前身となったこの仏像は、その後、室町時代の永徳3年(1383年)に将軍・足利義満によって相国寺慈照院の内仏とされました。さらに江戸時代の延享元年(1744年)には、徳川家康の学問所であった法蔵寺岡崎市)へと移されます。

宝暦11年(1761年)、歴史の巡り合わせによって一度は立信寺へと戻ってきた「河原屋仏」。しかし、本堂改築の折に「本尊としては小ぶりである」という理由から、再び法蔵寺の別の阿弥陀如来像と交換されることになります。天下の名刹や権力者の手を渡り歩いた数奇な仏。現在も法蔵寺に安置され、静かに歴史を見つめています。

火災を越え、歴史を継承する境内

かつて石塚にあった立信寺は火災によって焼失し、現在の山裾へと移転してきました。その詳細な年代は定かではありませんが、境内には酒井久候碑や、巨勢家家臣・壷井久左衛門の墓碑といった貴重な遺構が残り、地域の激動を見守ってきた証人として佇んでいます。

さらに、平成の世に合併した慶忠院より、かつての登屋ヶ根城主の菩提寺であった長寛寺の小堂がこの境内に移設されました。失われた古寺の祈りをもその懐に抱きながら、立信寺は今も、途切れることのない歴史の重みを静かに守り続けています。

時の積層を語る古城、豊川市・登屋ヶ根城跡に刻まれた興亡の記憶.
慶忠院:廃寺の跡に漂う祈りの残影.

  • 寺号 長沢山 音羽閣 立信寺
  • 本尊 阿弥陀如来
  • 宗派 浄土宗西山深草派
  • 創建 文明六年(1474年)暢光照雲栄大和尚(二村山 法蔵寺第2代)

立信寺の地図・行き方

参考文献
浄土宗西山深草派寺院名鑑 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
音羽町誌 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
宝飯地方史資料 4 – 国立国会図書館デジタルコレクション.

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