尾崎翁と鉢地トンネル:悲願の峠に刻まれた執念
鉢地トンネルの入口に立つと、高さ2.5メートルにも及ぶ巨石が、今も威風堂々とした姿で旅人を迎えてくれます。そこに刻まれているのは、「明治三十六年蒲郡町尾崎市右衛門翁始めて鉢地坂開墾の必要を説き」という一文です。
この碑こそ、かつて険路に阻まれていた蒲郡と東海道を繋ぐため、生涯を捧げた一人の先駆者の執念を今に伝える「鉢地坂隧道開墾碑」です。
険路に挑んだ「尾崎翁」の生涯と悲願の結実
明治36年、尾崎市右衛門翁は西宝八か村の有志総代となり、当時の愛知県知事・深谷一三氏へ実地測量の請願書を提出しました。これが、のちのトンネル開通へ向かう歴史的な第一歩となります。翁は大正6年にこの世を去るまで、周囲の冷ややかな目に抗いながらも、各方面へ執拗なまでに促進運動を続けました。
翁の遺志は、次世代へと受け継がれます。大正9年に「切山蒲郡停車場線」として府県道に認定されると、大正11年には蒲郡町が1,000円、本宿村が300円を支出し、地域住民も加わっての実地測量が行われました。
そして昭和6年に待望の第一期工事が着工されました。翁の十七回忌という巡り合わせにあたる昭和8年11月、ついに念願のトンネルが完成したのです。これにより、蒲郡駅から本宿、樫山を経て切山(旧額田郡)へと至る、待望の自動車道が開通しました。(県道切山蒲郡線の竣工式は昭和9年1月26日、蒲郡〜新箱根〜本宿間のバス開通は8月になりました。)
信濃騒動の出陣から、わらじの俚謡が伝える峠の険しさ
この鉢地峠は、はるか昔から東海道へと抜ける要衝でした。『蒲郡史談』によれば、かつて西の郡のお殿様が「信濃騒動」の跡詰(後処理)のために法蔵寺へ出陣した際も、また清田の安楽寺を開山した宏山竜芸和尚も、この険しい峠を越えていったと記されています。
「鉢地切山わらじが切れる、切るに切られぬわしらがわらじ、鉄できたえたとこわらじ」
古くから伝わるこの俚謡(りよう)は、当時の旅人や商人が、どれほど足元をすり減らしながらこの難所を越えていったかをリアルに物語っています。それほどの険路だったからこそ、トンネルの開通は、まさに地域にとって悲願の「夜明け」だったのです。
賑わいの痕跡と、先駆者への切なる想い
開通後、峠は「新箱根展望台」が整備され、日に何度もボンネットバスが行き交う一大観光地へと変貌を遂げました。しかし、時代の主役が高速道路や幹線道路へと移るにつれ、バスの運行は途絶え、展望台も撤去されて往時の素晴らしい眺望は失われました。かつて街道沿いを彩ったホテルや飲食店の多くは、今や静かに風化を待つ廃墟となり、峠は深い静寂に包まれています。
『蒲郡風土記』の著者・伊藤天章師は、新箱根の美しさを褒め称える観光客の姿を見つめながら、「素晴らしい景色だとほめて通るが、尾崎翁の苦心を偲ぶ人はほとんどいない」と、一抹の寂しさを込めて章を結んでいます。
現代のアスファルトの底に眠る、一人の男が燃やした情熱と苦難の歴史。静まり返ったトンネルの入口で佇む巨碑は、今もその功績を静かに主張し続けています。






鉢地トンネル・鉢地坂隧道開墾碑の地図
古墳が放浪者の住家:華やぎの跡の石室が明かす「新箱根」の哀歓
『蒲郡風土記』を歩く|昭和35年の記録で巡る郷土歴史旅
参考文献
本邦道路隧道輯覧 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
「鉢地切山」郷土民謡風土記 – 国立国会図書館デジタルコレクション.