時の積層を語る古城、豊川市・登屋ヶ根城跡に刻まれた興亡の記憶
豊川市長沢町の小高い丘に佇む登屋ヶ根城跡(関口城・番場城)。現在は静寂に包まれていますが、その地名には幾重にも重なる歴史の断片が秘められています。
鎌倉から室町へ、城主たちの移ろい
この城の起源には諸説あり、古くは鎌倉末期の永仁年間(1293年頃)、讃岐の住人であった番場太郎到由が築いたと伝えられています。その後、14世紀初頭には足利義氏や吉良長氏の血を引く今川二郎常氏がこの地を治め、その弟である関口五郎経国が家督を継承。以後、関口家が代々この地を守り続けました。近隣の岩略寺城も、関口家5代目の関口満興によって築かれるなど、一族はこの地域に確固たる勢力を誇っていました。
戦国の嵐と家康軍による落城
戦国時代へと時が流れると、城の役割はより峻烈なものへと変わります。永禄年間には今川氏の武将、糟谷善兵衛や小原藤五郎が配され、勢力を拡大する松平軍への防波堤となりました。しかし、永禄4年(1561年)、ついに徳川家康(当時は松平)の軍勢による猛攻を受け落城。数多の武士たちが駆け抜けた栄華は潰え、城はその役割を終えて歴史の表舞台から静かに姿を消しました。
寂寥とした風景に残る往時の面影
かつての本丸跡には時代の変化と共にホテルが建てられました。しかし、現在はその建物も役目を終え、静かに朽ちゆく時を待っています。城址の一角、城主関口刑部の墓所慶忠院跡(菩提寺であった長寛寺跡)が、今もひっそりと佇んでいます。現在は畑として開墾されたこの地を訪れると、重なり合う葉音だけが耳に届きます。そして、かつての戦乱が嘘のような、どこか物悲しくも穏やかな空気に満たされています。
(*慶忠院跡の関口刑部のものと言われる五輪塔は『音羽町史』に記載と相違があるようです。廃寺にともない立信寺と合併した際、改葬された可能性も考えられます。)






登屋ヶ根城跡の地図・行き方
北側の市道に標識柱があります。(画像参照)

参考文献
「島屋箇根落城」参河国名所図絵 上 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
音羽町誌 – 国立国会図書館デジタルコレクション.