鈴木茂三郎の碑:貧しき生家から政界の頂点へ、不屈の政治家
蒲郡市民会館の穏やかな庭園の一角に、一基の歌碑が静かに佇んでいます。刻まれているのは、「うみを見よ、はゝをみるごと ふるさとはよし」という柔らかな一首。この碑は、第2代日本社会党委員長を務め、激動の昭和を駆け抜けた蒲郡出身の政治家、鈴木茂三郎(すずき もさぶろう)を顕彰するものです。
潮騒と貧困の中で育まれた精神
茂三郎は明治26年(1893年)、現在の市民会館のすぐそば、当時の蒲郡町大字小江の貧しい貸家で生まれました。三男・徹三氏の記録によれば、幼少期は「おからのお粥」さえ満足に食べられないほどの極貧生活だったといいます。1 地元の北部小学校で代用教員を務めた後、1912年に志を抱いて上京。苦学の末に大学を卒業し、新聞記者を経て社会主義運動の道へと進みました。
「青年よ、再び銃をとるな」
戦後、日本社会党の結成に参画した茂三郎は、左派の中心人物として衆議院議員に初当選(以後9回当選)。1951年に委員長に就任した際の演説「青年よ、再び銃をとるな」は、平和を希求する当時の国民の心に深く刻まれ、彼の代名詞となりました。
故郷・蒲郡へ捧げた「母なる海」の心
1970年(昭和45年)にこの世を去った4年後、かつての生家近くに建立されたこの碑は、あえて政治色を廃し、一人の人間としての思いを込めた「歌碑」という形をとりました。
碑の裏面には、親交の深かった経済学者・大内兵衛による「君は日本の大衆のために命を捧げて怯まなかった」という激賞の言葉と共に、当時の長谷部市長による「市民からはモサさんの愛称で親しまれた」という温かな一文が刻まれています。
「海を母のように見よ」と詠んだ茂三郎。その言葉には、極貧の少年時代を支えた故郷の風景への愛着と、すべての人々が穏やかに暮らせる平和な社会への願いが込められています。
今も市民会館の緑の中に佇むその姿は、一筋の道を究めた男の力強い生き方を、静かに語り継いでいます。




鈴木茂三郎の碑の地図・行き方
参考文献
私の歩んだ道 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
愛と闘爭 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
月刊社会党 (251) – 国立国会図書館デジタルコレクション.
生家については「蒲郡町大字蒲郡三百六十八番戸の貸家」、そして「いまの蒲郡駅のプラットフォームあたりといわれる」と徹三氏は記しています。また『私の歩んだ道』には、「此所から海岸の(健碧館別館)海月楼の古い門の前の尾崎市右衛門の貸家に引越したのは私が六つか七つの頃であったろう」とあります。2
健碧館は明治24年創業の「蒲郡を代表する料理旅館」で、栄町の海岸線にありました。海月楼も栄町にあり、『蒲郡の表情50年』3にある「旅館『海月』解体・昭和59年」だと考えられます。現在はありません。