西郡松平家陣屋跡:都市の骨格を築き、蒲郡へ

蒲郡市本町の市街地を歩くと、かつてここが「西郡(にしのこおり)領」の政治の中心地であった名残を見つけることができます。それが、明治までこの地を治めた西郡松平家の拠点、西郡松平家陣屋跡です。

街の始まりを告げる「印内石」と大手門

現在、十王堂の前には「蒲形陣屋大手門之跡」の碑が立ち、かつてここに威厳ある門があったことを伝えています(門は現在、市博物館へ移築)。また、十王堂と薬證寺の前には「印内石(いんないいし)」と呼ばれる境界石が残されています。

これは、12石余りの役(税)が免除された特権的な地域を示す標識でした。かつて東は現在の秋葉神社付近、西は本町交差点の「鍵手(かぎて)」と呼ばれた屈折路に置かれ、その間の街道沿いに形成された町こそが、後の「本町銀座通り」へと続く、市内発展の礎となりました。

市場神と印内石 – 鵜殿氏から続く蒲郡市本町の物語

「お駒が池」と陣屋の面影

昭和35年の『蒲郡風土記』には、陣屋周辺の情景として「お駒が池」という池の記述があります。記述にある「椎の木林の中の稲荷さん」は今も現存しており、この社を囲む一帯に、領主の屋敷があったことが強く推測されます。周辺に残る「西廓(にしくるわ)」などの地名も、ここが城郭に近い機能を持った陣屋であったことを裏付けています。

おたちくさん:西廓地区に受け継がれる厄除けの祠

徳川の同族として、特別に守られた家系

西郡松平家(竹谷松平家)は、一度は存続の危機に立たされました。竹谷松平家7代・忠清に世継ぎがなく、本来であれば断絶(除封)となるところでした。しかし、徳川将軍家と同族であり、先祖代々の功績が多大であったことから、慶長17年(1612年)、家清の次男・松平清昌が西郡5,000石の領主として封じられ、家系が存続しました。

彼らは「交代寄合(こうたいよりあい)」という、参勤交代を行う旗本の中でも最高位の格付けにあり、大名に準ずる格式で幕府から厚遇されました。

「蒲郡」誕生に秘められた、二つの村の自負

蒲郡」という地名が誕生したのは、明治11年のことです。それまでの中心地であった「蒲形(かまがた)村」と、広域地名や領名として長く親しまれてきた「西郡(にしのごおり)村」が合併して生まれました。

当時、歴史ある「西郡」の名を守りたい側と、「蒲形」の誇りを持つ側で、話し合いは難航したと伝えられています。最終的に、互いの頭文字を一字ずつ取り、融和の証として「蒲郡」という名が定められました。

本町の路地裏に残る土塁や印内石は、この街が単なる「淋しい村」から、格式ある領主の城下町として、そして市民の誇りがぶつかり合う自治の場として成長してきた歴史を、今も饒舌に語りかけています。

蒲郡の松平家

西郡松平家陣屋跡

西郡松平家陣屋跡の地図・行き方

蒲郡歴史マップ100 – 蒲郡の旅

参考文献
蒲郡市博物館編.『図説 がまごおりの歴史』.蒲郡市教育委員会.令和5年.
伊藤天章.『蒲郡風土記』.蒲郡新聞社.昭和51年.
蒲郡市博物館編.令和2年.『蒲郡歴史マップ100』.
蒲郡市誌 本編 – 国立国会図書館デジタルコレクション.

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