勇将の最期と一族の興亡を刻む、西門前の「鵜殿長照の墓」
上ノ郷城の西側に広がる西門前の静かな墓地。そこには、永禄5年(1562年)、徳川家康の軍勢に抗い、今川義元への忠義を貫いた城主・鵜殿長照(うどの ながてる)が眠っています。城の東側「鵜殿坂」で壮絶な最期を遂げたと伝えられる長照。その遺骸は城を挟んで反対側にあたるこの地に葬られました。
今川家と血脈を共にした義の武将
長照の父・長持は、今川義元の妹を妻に迎えていました。つまり長照にとって今川氏真は従兄弟にあたります。家康の台頭により蒲郡の鵜殿一族の多くが徳川方へ転じる中、長照が今川勢として最後まで戦い抜いた背景には、こうした深い血縁と恩義がありました。
熊野から移った鵜殿氏の源流
鵜殿氏のルーツは遠く紀州(和歌山県)の鵜殿村にあります。平安末期から鎌倉時代にかけて、熊野一族とともにこの地へ入植。源頼朝から土地を安堵されて以来、三河における鵜殿氏の拠点として上ノ郷の地を治めてきました。かつてはこの一帯が「上之郷」として栄えていました。そしてそれに対する呼称として現在の本町周辺が「下ノ郷」と呼ばれていたことからも、当時の勢力の大きさがうかがえます。
灰燼に帰した大寺院「長応寺」の面影
かつて城の西側には、連歌師・谷宗牧が『東国紀行』で記した「常顕院」こと、名刹・長応寺がありました。しかし、永禄の落城と共にこの大寺院も炎上。現在の神ノ郷町に残る「門前」や「西門前」という地名は、かつての長応寺の壮大な門前町であった名残です。その跡地に再建されたのが現在の正行院です。境内には落城の犠牲者を悼む「上ノ郷鵜殿一族ノ霊碑/鵜殿落城男女諸精霊之墓」が建立されています。
五百年の時を凝縮する、西門前の眺望
長照の墓所は、正行院から少し南へ下った「又十(またじゅう)墓地」にあります。周囲の喧騒を離れ、木々に囲まれて静かに佇むその墓所からは、家康が陣を敷いたとされる名取山を望むことができます。
かつて刃を交えた敵陣を見ながら、五百年の時を経てなおこの地に留まる長照の魂。その風景は、戦国の世に生きた人々の情熱と哀哀を、今に生きる私たちの心へ鮮烈に映し出しています。
家康の腰掛岩(つくね岩)
鵜殿坂:戦国の激闘を伝える通学路、上ノ郷城落城の悲劇が眠る





