三谷・弘法山の「子安弘法大師像」:願いと奇跡

蒲郡市三谷町の山頂から、穏やかな三河湾を慈しみ深く見守る子安弘法大師像。高さ約30メートルという圧倒的な規模を誇るこの像は、昭和10年(1935年)の建設当時、「東洋一」と称えられました。現在は隣接する三谷弘法山金剛寺の本尊として、国内最大級の大きさを誇る「お大師様」の名で、多くの参拝者に親しまれています。1

滝信四郎氏の願いと奇跡の誕生

この大師像は、蒲郡の発展に尽力した瀧兵右衛門商店(現在のタキヒヨー)の五代目、瀧信四郎氏によって建立されました。当時、子宝に恵まれなかった滝氏は、切実な思いで孫の誕生を願い、三谷の山頂にこの像を築くことを決意しました。仏教建築士・鬼頭三郎氏の設計により、四国霊場第61番札所・香園寺の立像を模して造られました。昭和10年(1935年)に計画が始まるとすぐにご利益が顕れ、待望の長男が誕生したという逸話は、今も語り草となっています。昭和11年10月に着工し、翌年10月に完成しました。2

空海の世寿を刻む、緻密なる設計の妙

像の各部寸法には、深い意味が込められています。たとえば、身長が「62尺」とされているのは、弘法大師空海の世寿(享年)である62歳にちなんだものです。その他、台座が24尺、錫杖(しゃくじょう)が74尺など、尺法によって細かく計算されたその姿は、単なる巨像ではなく、大師の生涯と慈悲を数字という形でも表現しています。

女人救済の誓いと「子安弘法」の縁起

『蒲郡風土記』によれば、この「子安弘法」の由来は平城天皇の時代に遡ります。空海が四国の香園寺山麓で、難産に苦しむ女性を救うために祈祷を行いました。そして、無事に安産させたという伝説が元になっています。これ以来、大師は安産、子育、身代り、成仏という四つの誓願を立てられたと伝えられています。

現在、山頂付近には建立者である瀧信四郎氏の像も佇んでおり、蒲郡の観光史を語る上で欠かせない聖地として、今日も多くの人々が祈りを捧げています。

子安弘法大師像

子安弘法大師像の地図・行き方

子安弘法大師像の大きさの解釈

錫杖(しゃくじょう)の長さ:74尺

弘法大師が手に持っている杖、錫杖の長さは74尺です。これは、大師が74歳までこの世に在世された(入定された)という説、あるいは数え年での年齢などを象徴していると言われています。

全高:98尺

台座を含めた全体の高さ98尺は、弘法大師が唐(中国)から帰国した後の活躍や、後世に与えた影響の広がりなどを、仏教的な吉数や宇宙観に合わせて設計されたものとされています。

眉の長さ:4尺1寸

大師の眉の長さが4尺1寸とされているのは、弘法大師が41歳の時に厄除けの誓願を立てられたことや、その年齢にまつわる節目を記念しているという説があります。

頭の周り:3尺3寸

仏教において「33」という数字は、観音菩薩が人々を救う際、相手に合わせて33の姿に変身する(三十三身)という教えに由来します。

童子の身長:19尺

大師に抱かれている童子の身長19尺は、四国霊場第19番札所である立江寺(たつえじ)にちなんでいると言われています。立江寺は「四国の関所」とも呼ばれ、子安地蔵(子安弘法)としての信仰が非常に厚い場所です。その霊場番号を童子の姿に投影したと考えられています。

このほか、台座高24尺、顔の長さ12尺、耳の長さ4尺5寸、鼻の長さ2尺3寸、口の長さ3尺5寸、眼の長さ3尺1寸、眉の長さ4尺1寸です。

参考文献
タキヒヨー株式会社.
滝富夫監修,伊佐治弥生著.『蒲郡の夢:滝信四郎が蒔いた種』.令和7年.
伊藤天章.『蒲郡風土記』.蒲郡新聞社.昭和51年.
蒲郡市博物館編.令和2年.『蒲郡歴史マップ100』. 
蒲郡市三十年史 – 国立国会図書館デジタルコレクション.

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  1. 金剛寺はもともと、子安弘法大師像の前にありましたが、ロープウェイ建設のため現在地に移転したと言われます。
  2. 『蒲郡市誌』には昭和13年の完成とあります。

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