伊能忠敬の測量の碑:日本地図の礎を築いた蒲郡での歩み

江戸時代、日本全国を歩いて精密な地図を作り上げた伊能忠敬。彼が三河の地を訪れたのは、第4次測量にあたる享和3年(1803年)のことでした。春の暖かな日差しの中、湖西から始まった測量は、渥美半島豊橋を経て、ここ蒲郡の沿岸部へと至りました。

三谷と西浦、義理の親子が繋いだ宿泊の縁

享和3年4月14日、忠敬一行は三谷村の名主・本多定右衛門邸に宿泊しました。そして、翌15日には西浦村の医師・入戸野貞伯(にっとの・ていはく)邸に身を寄せました。興味深いことに、本多定右衛門の妻は入戸野貞伯の次女です。忠敬蒲郡で宿泊したのは、実は義理の親子にあたる二つの名家だったのです。現在、それぞれの跡地には「伊能忠敬蒲郡測量宿泊地跡」の石碑が建立され、往時の足跡を今に伝えています。

船町からの遠見と沿岸実測の記録

測量日記によれば、14日の朝、一行は吉田(豊橋)の船町を船で出発しました。豊川を下る船上からは、右岸に広がる下地村横須賀村日色野村といった村々を「遠見」しました。そして、前芝からは再び陸路での実測を開始。赤根村大塚村を丹念に測りながら、その日の宿りとなる三谷村へと足を進めました。一歩一歩、大地を刻むような測量の執念が日記の行間から滲み出ています。

地域の人々に支えられた、不屈の測量事業

翌15日は、波打ち際を歩きながら過酷な測量が続けられました。西田川を渡る際には、それまで同行していた三谷村の人々と別れ、新たに不相村小江村の人々が案内役として加わりました。この壮大な国家事業は、決して忠敬一人の力ではなく、案内や荷運びを担った地域の人々の献身的な協力によって成し遂げられたものでした。

名家・本多家が守り抜いた歴史の誇り

三谷で一行を迎えた本多定右衛門は、名門の五代目にあたります。家系図を紐解くと、初代は丸山鵜殿氏の娘を母に持ち、竹谷松平家とも血縁関係にあるなど、由緒正しい家柄であったことが分かります。

現在は長閑な畑地が広がる一角に、石碑が静かに佇んでいるのみですが、こうした地方の協力者の存在こそが、近代日本の発展へと繋がる精密な地図を完成させたのです。

伊能忠敬西浦宿泊地(入戸野貞伯邸)
伊能忠敬の歩いた愛知県

伊能忠敬蒲郡測量宿泊地跡の地図・生き方

参考文献
市川光雄(1983)『伊能忠敬の蒲郡測量とその周辺』 – 国立国会図書館.
伊能忠敬e史料館(InoPedia.tokyo).

蒲郡歴史マップ100 – 蒲郡の旅

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