松田池と井立利左衛門翁の功績:竹谷の地を救った情熱の結水
水不足の村を救った文久の決断
蒲郡市竹谷町と西迫町の境界に位置し、今も美しい水面を湛える「松田池」。この池の歴史は、文久3年(1863年)まで遡ります。当時、慢性的な水不足に喘いでいた松田・野川・足洗・今御堂の四地区を救うため、地元の庄屋・井立利左衛門翁が村人と一丸となって開墾。驚くべき短期間で完成させたこの溜池は、地域の農業を劇的に変える希望の光となりました。
親子二代で紡いだ無私の精神
利左衛門翁の志は、息子・周助へと受け継がれました。周助は工事の余剰金を大切に蓄え、村人に一切の負担をかけることなく、自らの手で池の修繕を繰り返しました。利左衛門翁は明治20年に83歳で世を去りましたが、その無私の精神は「田主中(受益者一同)」によって頌徳碑として形に残されました。
時代を超えて田畑を潤す「報恩の池」
かつて塩津小学校近くにあった頌徳碑は、現在は池の傍らに移設されています。約10ヘクタールもの広大な田畑を今も潤し続ける松田池。その傍らで、利左衛門翁は今日も「田主中」の人々と共に、実り豊かな竹谷の風景を穏やかに見守っています。






松田池・利左衛門の頌徳碑 地図・行き方
井立利左衛門の頌徳碑 現代語訳
宝飯郡竹谷郷(現在の蒲郡市竹谷町周辺)に、慈愛に満ちた一人の人物がいました。日々善行を積み重ねても「まだ足りない」と尽力し続けたその人こそ、井立利左衛門翁です。
翁は若くして里の庄屋(村長)となり、30年以上にわたって誠実に職務を全うしました。その働きぶりは実に見事なものでした。領主である林文養君もその功績を認め、武士のように帯刀を許し、自筆の書を授けました。これは当時、極めて異例の誉れ高いことでした。
翁は生まれつき聡明で、節約を重んじる一方で、特に土木や測量の技術に精通していました。かつて村内の松田、野川、足洗、今御堂の四つの地域は、水を引き入れる設備が乏しく、毎年ひどい干害に悩まされていました。翁はこれを長年心にかけ、何とかしたいと考えていました。
そして文久3年(1863年)の春、翁は村の人々と共に溜池(ためいけ)の開墾を計画します。人々は喜び協力し、わずかな期間で見事に完成させました。その後、明治3年(1870年)には、静岡藩知事によってこの溜池にかかる税金(地租)も免除されることとなりました。
跡を継いだ息子の周助も、父の志を立派に受け継ぎました。工事で余った資金をコツコツと積み立てては、何度も池の修理を行いました。しかも、その修理費用を村の人々に負担させることは一度もありませんでした。父への孝心と、人々への思いやりに溢れた行動は、計り知れないほど深いものでした。
この溜池によって潤った田畑は10町歩(約10ヘクタール)を超え、恩恵を受けた人々は皆、その徳を称えています。
明治20年(1887年)6月28日、翁は83歳の天寿を全うし、静かにこの世を去りました。近頃、昔からの友人たちが集まり、「翁の恩徳に報いるため、その功績を石に刻んで永く後世に伝えよう」と話し合い、私に碑文の作成を依頼されました。私は浅学ではありますが、断るに忍びず、ここに詩を添えて翁の歩みを記します。
結びの詩
孤沼浮山の八影、千田月輪を印す。東西の花靄を帯び、南北の柳春を添ふ。都て是れ翁の余沢、名賓救世人。
かつてこの地に水の便を切り開き、その知恵で新しい景色を生み出した。 池に浮かぶ山の影は美しく、千もの田には月が映し出されている。 東西には花の霞がたなびき、南北の柳は春の彩りを添えている。 これらすべては翁が残した恵みであり、世を救ったその名は永遠に語り継がれるだろう。
愛知県宝飯郡長正八位 竹本元儤篆額 成瀬 文吾撰
原文・訳文は「井立利左衛門頌徳碑」宝飯地方史資料 4 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
参考文献
蒲郡市博物館編.令和2年.『蒲郡歴史マップ100』.
伊藤天章.『蒲郡風土記』.蒲郡新聞社.昭和51年.
蒲郡市誌 本編 – 国立国会図書館デジタルコレクション.