鬼畜
イブとクリスマスに「鬼畜」を観る。
イブの夜はテレビ朝日で放映されたドラマ版、クリスマスの夜は1978年、野村芳太郎監督の映画版を観た。
ネット上では、クリスマスイブの夜に放映することの是非を問う(そこまで大げさではないけれど)ツイートもあった。なるほど。
原作は読んでないのだけれど、季節な夏、「汗」が繰り返し繰り返し写し出されて低い音程が底から忍び寄るように聴覚化される。汗のもつメタファーの象徴的な出来事が、仕事でありセックスである。その時代と人間の業が「汗」に象徴化される時に、「徒弟制度」や「妾」、あるいは「虐待」や「子殺し」といった物語が質量を持って伝わり流れる。
そういった時代。高度成長という例えば東京オリンピックのために、例えば新幹線開通のために、貧困や差別が際立つ時代の一場面を映画は写し出そうとする。ドラマはその表現の限界を知らせようとする。
一見物足りなさを感じるぼんやりした時代背景やリアリティの希薄さは、実はその物足りなさを感じさせることによって、差別とか貧困、虐待というテーマの輪郭を強調する手段だ。だとすれば、脚本の竹山洋さん、和泉聖治監督の手法は巧い。想像させる、ということにおいて巧妙だということ。
クリスマスに放映するということは、「大変な事態を起こすこともある」という意味の本当の意味、人は喰らう、欲望は果てしなく、そのために、利己のために、なんでもするし出来るということを、イブの日に、終わらない戦争や差別、貧困や格差を続けて考えさせられるドラマだった。その喰らうために大変な事態は起こっている、のだ。
というボクの主観的ドラマ評なんだけれど、まあ、そういう意味もあるのだろうけれど、その「汗」の季節、夏に放映予定だったのだろうけれど、医者役で登場していた橋爪功さんの息子さんの事件があったので延期になったのと、そして「清張がこの衝撃作を書き綴ってから60年」と「没後25年」という年でもあるので、どうしても今年中に放映したかったということも、考えられる・・・。
とにかく、クリスマスイブにピッタリなドラマだったと、ボクも思った。それは、また、クリぼっちな、欲のない、連夜「鬼畜」を見るようなボクたちに、ピッタリなドラマだったとも言えるのだろうね、きっと。
みんなが『陸王』と言うので天邪鬼な私は『鬼畜』へ。どうした和泉聖治、風潮に屈したか。いやドラマは悪くない、時代背景だ。あの時代、誰もが妾で了解していたのに「愛人」と表する。刑事課に人が溢れガスってる。しかしタバコを吸う者は誰もいない。時代のリアリティはどこへ行ったのかと問いたい。
— 立川談四楼 (@Dgoutokuji) December 25, 2017
豊橋市民であるのに「陸王」見なくてすまん。一回も見なかったのは「鬼畜」なのかもしれないね ;)