生活保護基準改定の矛盾、弱肉弱食の世界について
生活保護費の受給額削減案についてはボクたちの間でも議論が交わされている。
その議論の核心は生活保護費を引き下げるその理由についてなのだが、基準とされている低所得者が多いタクシー運転手の中には自分たちの収入の多寡もだけれど、生活保護費の多寡も他人事ではない。隣人であるがゆえの僻みや妬みなんてものも多いのも確かだ。貧困は人から寛容さを奪う。いや人間性を奪う。空腹は人を残酷にもする。
まずボクたちの議論のプロローグは、生活保護費や低所得者の生活費の低さ、ではなくて、その低さが問題になっていることへの驚きなのだ。
「その低さが問題になっている」というのは妙な表現だと思うかもしれないけれど、その低さはボクたちの日常であり、ボクたちにとっては普通のことであり、その価値の中でボクたちは生きていて、議論も疑問も疑念もないまま、それが「公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金」だと感じている。空腹は考える事さえ奪ってしまう。
871円。これが自動車王国愛知県の公正な1時間の賃金だ。月間労働時間の上限172時間を掛けると149812円。これが公正に支払われる賃金で、ここから社会保険料や所得税などが控除される。手取り10万円程度で、祝日が2日ある月は、病気で2日休めば8万円程度になってしまう。(九州や東北だと172時間働いて12万円程度、手取りは8万円ぐらいになるはずだ)
50代単身世帯の生活保護費8万160円。
50代単身世帯の一般低所得世帯の生活費7万5250円。
タクシー運転手の中にもそれぐらいの手取りの人も多い。
で、それって「まあ、まあの金額じゃないの?」「わしだって7万円ぐらいで生きている」「ワンコインランチが高いって思ってるし」・・・。
では、その8万円とか7万円は公正な金額なのだろうか?そしてそれは高いのだろうか低いのだろうか?
ボクたちはそこで悩んでしまう。だって、ボクたちにはそれが公正な金額なのだし、それがボクたちが危険な作業をして稼いだ金額だと、なんの疑いもなく感じているのだし。
50代のおじさんは8万円の生活費で文化的な生活が出来ると国家は公正な判断をしているのに、その8万円が高いとか安いとか議論しているのだ。最低賃金の基準はいったい何なんなんだろうか?というところで、またまたボクたちは黙ってしまう。14万円とか12万円が文化的生活を送る金額だと国家は言っているのに、ボクたちより高い生活保護費を受給している人たちに対しては、新聞もネットも異議を申し立て、なんだか暴動でも起きそうな雰囲気だ。
タクシー運転手の賃金の低さ、非正規労働者の賃金の低さ、それよりなにより低所得者である50代のおじさん(おばさんもいるだろうが)が7万5250円で生きているってことについては黙認なのだろうか。
そして、みんなが熱望している「長時間労働」がなくなれば、ボクたちは1日8時間しか労働できない(今でも法律上1日8時間労働なのだけれど)。非正規労働者はいよいよ置き去りにされてしまって、7万5250円よりも低い生活費で文化的な生活をしなければならない可能性だってある。休日が増え、労働時間が短縮されるその先に待っているのは生活水準の(文化的生活の)低下と格差の拡大なのだ。
矛盾する。
みんな矛盾している。
「生活保護の生活費は最低限度の生活を営むのに必要な水準が支給され、生活保護を受けていない低所得世帯と同じ生活水準になるよう算出」するという、その算出基準とか生活水準というものについては、それが間違っているのではなくて、最低賃金って言うものがある限り、12万円とか14万円が公正な賃金だとみんなが認めている限り、それが文化的生活を送ることのできる賃金なのだから、それより高いってのは不公平だ。
生活保護費の削減に意義を唱える前に、文化的生活をおくることの出来る生活費についての基準や最低賃金の公正さについて、格差や貧困についての問題をキチンと解決しなければ、いつだってこういった国家が国民を扇動するような施策を行う。
低所得者と生活保護者の対決を仕込んで、支持率をあげようとする。そうして気が付けば、非正規労働者ばかりの世の中になって、弱肉弱食世界になる。それが格差の拡大を容認する、待望する、一部の人たちの戦略だということに、ボクたちも、そうして反論する人たちも、気が付かなければならない。
「とにかくね、基準ってのが曖昧なのがいけないんだよ」
「そうそう、低所得世帯と同じ生活水準になるよう算出するんなら、オレたち50代おじさんが20万円になれば、生活保護費も20万円でも公正だって言ってるんなら、最賃を上げなきゃね」
「というか、みんな文化的生活のレベルを下げまくっているからダメじゃないの」
「そうそう、たまには吉牛じゃなくて、普通に食べようよ」
「う~ん、みんなそれに慣れてしまってるから、いまさら足抜けできないし・・・」
「生活保護費と最低賃金がリンクされたところで、こうなれば低所得者・生活保護受給者連合軍で暴動だ。オレたちには失うものはないんだし」とボクが言ったところで、エンディングをむかえたのだけれど、消費しないこととか我慢とか、生活のレベルを下げることへの不感症というか、希望の喪失というか、そういったことが、文化的生活のレベルを低下させる。考えることを止めてしまっては、いよいよ#鎖自慢の奴隷になってしまうのだろう。
メリークリスマス!
そろそろ冬休みですね。
良いなあ。
こんばんは。
勤務形態・業種・年齢・性別など問わず自営業含めて働いている方にとっては言い方は悪いかもしれないが十分働ける能力があるにも関わらず何もせずに毎月お金を貰っている方に対して許せない、ずるいといった気持ちが少しでもあるのは日本人らしい正常な感覚だと思います。
病気や障害で働けない方はまた別です。
少しでも働いていて足りない分を貰っているのであればまた違うのですが生活保護の仕組みをよくわかってない方が少しでも働いてるのなら不正受給だ!などとわめく。
そこは正しく申告してるかどうかが問題であり生活保護の仕組みに関して誤解されないよう国や自治体が何らかの形で周知させるのは必要でしょう。
あと非正規労働者を全て低所得者と決めつけるのは間違いです。相対的に低所得者が多いというのならわかりますが。
逆に正規労働者は全て金持ちだと思われても困ります。
いい加減非正規労働者を
原則通年フルタイムで働くものと短時間または一年のうち期間が限定されているもの
18歳から60歳または65歳までとそれ以外および学生と主婦
などいくつかに区切って解決していくようにしないと駄目だと思います。
何でもかんでも非正規の括りにしてしまうからその中で意見の相違が出やすいのは否定できません。
貧困といえば進学および就職において機会が公平でない事への解決が必要に思えるのです。
生活保護を受給している家庭の子が進学しようとするとけしからん、ふざけるななどといった意見を見かけたりしますがそれ以外の低所得者含めてそこへの支援は大事です。
皆が皆となってもあれなので一定の学力があるなど多少の条件はつけても構いません。
俗にいう氷河期など特定の世代を優遇するのも場合によっては容認します。
逆に学校や会社に入ってからの成績で評価が変わるのはあまり悪いとは思いませんしみんなで手つないでゴールして全員1等賞といった考え方はよいと思った事ありません。
競争自体は必要だと思いますし負けてこそわかる人の気持ちはあります。
成績が悪くてついていけない方を出さないようにするのは大切ですが現実的にゼロにはできないでしょう。
同一労働同一賃金をその全員1等賞のような仕組みとして考えるのならそこに関しては反対します。
あと賃金・能力など全てを低い側に合わせれば結果的に平等になるといった考え方は基本的に違うと思っています。
貧しい事が美徳で金持ちは下品といった考え方も日本人らしいといえますが・・