近くてすみません、ミッドランドスクウェア横タクシー乗り場で
どうか雨が降りやみますように。
少し前に九州から母と姉が名古屋にやって来たときのこと。
ボクたちは夕ご飯を、たしか高島屋の13階だかのレストラン街でいただいて、そうしてミッドランドスクエアの展望階に、その日に名古屋観光を出来なかったかわりに、夜景を見に行った。
母は、長旅の疲れからか、少し元気がなくて、それに老人特有の遠慮深さからだろう、一生懸命ボクたちについて来ている様子だった。それに田舎だともう寝ている時間なのだろう、眠そうな感じもした。
母たちのその夜の宿は名鉄インで、ミッドランドスクエアから、たぶんボクの足だと5分とか10分の距離だったのだけれど、そんな母の姿を見て、それになんだか歩いてその距離とかその時間のはかなさの中に「またね」なんて深重なコトバを切り出すことの哀しさを、ふと目の奥のほうに感じてしまっていたので、「じゃあ、タクシーでホテルまで行くといいよ」なんて言った。
ミッドランドスクエア横のタクシー乗場。
スラリとしたコンシェルジュのお姉さんに、「すみません、そこまでなんですが」と言った。「はい、どうぞ」なんて答えてくれて、「ただ、右折できないので、左折で少し回って行きますが」なんて付け加えた。「近くてすみません」…。
「ありがたい」とボクは心の中で思ったし、姉もそう思ったのか「すみません」と重ねて言った。そしてそのタクシー乗場がボクたちの別離場になり、乗り込む一瞬の時間とドアが閉まる一切の音が永遠にかわった。
ボクたちがタクシーの望んでいることは、きっとそんなやさしさなんだろうと思う。
初乗り料金を下げて「ちょい乗り」なんてことを言ったとしても、もうボクたちの心に沁み込んでしまっている「罪悪感」は拭えない。業界全体が「はい、どうぞ」なんて気軽さと優しさを持たないと、結局は交通弱者どころか病人に対して、「そこまでなんですが」「近くてすみません」と謝っている人に対しても憎悪してしまうようになる。
きっと、みんなに母がいて父がいる。そうしてみんな老い衰える。
九州は雨が降りやまない。きっと多くの人が「大丈夫かなあ」なんて支援とか援助なんて援ける気持ちを抱いているのだろう。
それと同じように、その人は、タクシーを必要としている人で、ボクたちの援けを必要としていると思えば、きっとみんなどんなに「そこまで」でも優しくなれると思う。そうしてそんな優しさこそが公共交通ということなのだ。「近くてすみません」と言うことも、感じることも、ないほうがいい。
どうかもう雨が降りやみますように。