血煙荒神山
2017年6月4日
なにが面白いのだろうか、なんて思っていた。
父は浪曲や講談を聴くのが好きだった。ラジオから流れる「ヘンテコリンな声」を、ボクたちは不思議に感じていたし、なにが面白いのだろうか、なんて言っていた。
「吉良の仁吉」なんて名前を聞いて、その浪曲の登場人物だったことが解かったのは、ここに住むようになってからのことで、「平井亀吉」や「形の原の斧八」という人たちの存在を近くに思うようになってから、ボクも浪曲を「面白く」感じ始めた。
聖地にいることの因果みたいなものを感じながら、遠い時間と場所の中に、例えば父親のことが交差する、そんなノスタルジックな気分に浸る時間を好むようになっている。ようするに、浪曲を聴くことは父や昔のことを思い出すスイッチとなっているのだ。
広沢虎造の「次郎長伝」を聴くと、そういったノスタルジックと相まって、この国の古き良き精神世界の原風景を感じる。義理人情、仁義とか任侠の世界の基礎となるものは、そもそも日本人の道徳観とか倫理観そのものではなかったか、そう思う。
人のために女房を離縁し、命を捨てる、なんてことは聖職者にも政治家にもできはしない。もうそういった義理人情、とか正義なんてものは浪曲の中の話だけになってしまって、利己的に生きることを平気で自慢する世間になってしまっている。欲のために長生きする人のなんと多いことか。往生際の悪い老人のなんと多いことか。
荒神山の喧嘩で吉良の仁吉は、その28年という短い生涯を終えた。
「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」
そういう生き方を考えることは大切なことだ。
今日は「仁吉まつり」。