業界とはいったい誰なんだろうか?

快晴。
熱めの風呂に入りながら、業界出版物を読む。

「ライドシェア」とか「交通空白地」とか「社会的責任」とか「公共性」なんて言葉で、接続詞として「危機」とか「未来」とか「利益」なんてものを使い、「一致団結」を導き出す。もちろん主語は「我々」だ。

その「我々」の中にいるだろうボクでさえ、「我々」が誰なのか、いったい誰なのか、解からないでいる。

「ボクたち」はそれほど真剣に「ライドシェア」を危機だと思っていなくて、「ボクたち」はそんなに「社会的責任」なんてことを真面目に考えていなくて、「ボクたち」はまったく「利益」の埒外にいる。

どれほど業界がそんな空言を言ってみたとことで、ボクたちの年収は相変わらず300万円程度で、全産業平均よりは200万円もの格差がある。労働時間だって、その300万円を稼ぐためには月間200時間以上、中には300時間近い人もいる。
平成27年タクシー運転者の賃金・労働時間の現況

「我々」と「ボクたち」は、ずいぶんと違う場所にいる。「我々」は、そんな長時間を働くこともなく、そんな年収でもなく、こうして唯一の楽しみが朝風呂と、朝酒なんてことはないはずだ。そうしてキチンとしたスーツを着て、安全な居住区に住んでいて、ボクたちを使う。そう「ボクたち」は、まるで19世紀アメリカのコットン畑の労働者のようだ。

ボクたちが望んでいるのは、そんな言葉ではなくて、労働に見合った賃金と、安定した生活、それだけなのだ。

我々の言うような、社会性とか公共性なんてものは一切合切要らない。ただただ普通に働き、普通の人の賃金で、普通の生活が送れる「業界」にいたいのだ。

そのためには「我々」がUberでもGoogleでも、Amazonでも、なんでも良いのだ。我々の収入はコットンをどれほど摘むかだけのことなのだから・・・。

ボクは風呂から上がり、ボンヤリと外を見ている。
ボクは豊かな暮らしではないのだけれど、飢え餓えすることはない。未来があるとは思えないけれど、失望もない。家族はいないのだけれど、絶望もない。ただ、ボンヤリと生きている。

「我々」と「ボク」の唯一の共通点と言えば、唯一、もうボクたちは未来や将来を考えるには老い過ぎているということだ。ボクは、老後を平穏に、普通に死を迎えられることを、これまたボンヤリと考えている。

月花の舞
風呂上がりのくず湯、月花の舞。

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