名倉談義 宮本常一の痕跡
『名倉談義』は、宮本常一が愛知県北設楽郡名倉村(現在の設楽町)を訪れ聞き取ったものです。宮本は昭和31年の秋、それから2度、都度3度、名倉をおとずれました。そして、宮本の代表作である『忘れられた日本人」に収録されました。
その『名倉談義』の舞台を旅をしました。なお、1984年発行の岩波文庫版『忘れられた日本人』を底本とします。
名倉談義の舞台大蔵寺
「大久保の寺へよびあつめて下さって話に花をさかせたのである」(p.62)の寺が大蔵寺です。今でも、この大蔵寺のある山の周囲で稲作が行われています。「ある朝のことでありました」(p.93)、鈴木和さんの家に「御光がさしている」とある、その時間帯に訪問しました。6月の早朝、水を張った田は輝いていました。



大久保
後藤さんが住んでいたのが大久保集落です。後藤さんの「石井のヨソウ坊」の話、例えば「過去帳を質において金を借りたり、釣鐘で漬物をつけたり」という話が印象的です。ヨソウ坊がいたのは「この寺」、つまり大蔵寺です。明治の初めは「この寺は代々住職がやって来て」いたそうです。そして、そのヨソウ坊は「豊橋の方へいき」ました。
この時の沢田久夫さんの話の中に、稲橋の古橋源六郎さんが登場します。ヨソウ坊も廃仏毀釈の被害者だったのかもしれません。明治維新の頃は、なんだろうが誰だろうが厳しい生活だったのかもしれません。

猪ノ沢
金田茂三郎さんが住んでいたのが猪ノ沢です。名倉談義の時には明らかにされなかったのですが、宮本の2度目の訪問の時に「法院さまの弟子」だったことが分かります。そして「易者になりました」(p.91)は、古川弥兵衛という住み着いた旅人の話とともに印象的です。

社脇
名倉談義では金田金平さんと、小笠原シウさんが住んでいたのが社脇(やしろわき)です。宮本が「たいへん感動した」という「目に見えないたすけあい」は、この両家の間でのことです。小笠原さんの女性の視点での話、たとえば「ヒマヤ・ヒマゴヤ1」や、ヒマ(生理)の時の話は今では考えられないことです。
また、小笠原さんの旦那さんは、西三河の幡豆郡からのもらい子でした。「あまった子供をこの方へ連れて来る者が多うありました」(p.86)ということです。小笠原さんの「女房は亭主のそれにひかれ、亭主は女房のそれにひかれるもんであります」や「たとえ馬鹿でも、女のものがよければ亭主は女房のそれにひかれるもんであります」は、「それ」や「女のもの」にはいろいろあるのが現在なのかなあ、と。

万歳峠
「延坂の上まで上がって来たもんだった」のが日清戦争の頃までです。後藤さんの「あれから万歳峠になった」とあるので、万歳峠=延坂峠ではないというのが私見です。つまり、「峠の上から六、七丁もこちらへ下りた市場口の北はずれ」になるのではないでしょうか?

沢田久夫さん
沢田久夫さんは『名倉談義』の冒頭で「たいへんな郷土史の百姓学者がいて」と紹介されています。『名倉談義』のなかでも、たいへん博識のある話をされています。道の駅したらの奥三河郷土館に行くと、沢田さんの写真が展示されています。また、館内の展示物は沢田さん所蔵のものが多いように見受けられました。
と、名倉談義、宮本常一の痕跡を少しだけ辿ってみました。これから約1ヶ月、この地域の小さな旅が続いた、2025年の6月でした。