perfect days な日々
12月30日に外出してから、引きこもりの生活が続いている、そんなperfect days…。
正月や盆なんてのは、現実社会もSNSも幸せが溢れているので、面倒臭い…。かと言って、不幸な話はさらに面倒臭い。そんな自分がもっと面倒くさい。したがって、ぽんこつアパートでぼんやりとしている。
こうして日記を書くのも面倒臭い。しかしだ、もう正月も5日、少しは「なにか」をしないと…、という強迫観念みたいなものが頭の隅っこに現れる。「しかたない」ので、と愚図りながら書いている…。
perfect days
2025年はヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』から始まった。(この後『エレファントマン』を観たのだけれど)
たしかに、平凡な質量のある毎日は一見幸せそうだ。きっと、perfect daysなんだろう。
朝、箒の音で目覚める。洗顔をし、植木に霧吹きをする。それから、自販機で缶コーヒーを買い、クルマ(仕事用の軽バンマイカー)に乗る。カセットテープの音楽(これがとても心地よい曲)を聴く。仕事場に着き、楽しそうに仕事をする。お昼は公園のベンチ。仕事が終わると、銭湯に行き、地下鉄構内の居酒屋で酎ハイを飲む。アパートに戻り、文庫本(フォークーの『野生の棕櫚』や、幸田文『木』)を読み寝る。
この繰り返し。ただ、休みの日にはコインランドリーで洗濯をし、古本屋で100円の文庫本を買う。それから、居酒屋。この繰り返し…。
つまり、繰り返される日々は、形式美を感じさせられる。芸術や武道、それらに通じる形式美だ。それは、本人も、そして観ているわしにとっても心地良く美しい。
不本意な人たち
昔、「清貧」という言葉が流行ったことがあった(と記憶している)。美しい貧困、清らかな貧しさ。
たしかに、主人公平山さん(名前まで平凡さが漂う)は、この単純で平凡で変化のない毎日がperfect days。だとしても、そのperfectさの生活の中に押し込まれている人たちもいる。いや、多い。
さらに、平山さんの仕事はけっして「やりたがる」ものでもない。それも、押し込まれている人もいる。貧困や職業差別の正当化、のようにも感じられる。
いや、ヴェンダース監督は善の人なので、そういった意図も多義性もない、とは思う。しかし、この国は、平山さんのように、幸せを感じながら質素(清貧)に生きている人ばかりではない。
本当は、「たまには映画館で映画も観たいよね」とか「新刊で読みたいよね」とか…。あるいは「風呂のあるアパートに住みたいよね」とか「老後は旅行でも行きたいよね」とか…。
朝、箒の音で目覚めない人もいるだろう。本当は、誰かと話したいのだけれど、話す相手も、居酒屋に行く余裕も、ない人たちもいる。perfect daysという絶望に押し込まれている人たちも、いる。
それは、まるで、監獄の毎日のようでもあるなあ…。なんて、1週間も全く同じ日々を過ごしているわしは考えたんだよ。そう、平山さんがカセットテープを選ぶように、自分が選んだ人生なら良いのだけれど、つまづいて、はい上がれないまま、「これで良い」「これが幸せ」と、思い込んで生きている人たちのほうが、多いよなあ…、と。