七ツ石温泉 大分海岸線の旅(3)
七ツ石温泉はあの頃と同じで、明け方のにおいがする。あの頃、もうずいぶんと昔の話…。アパートには風呂がなく、ボクはこの七ツ石温泉に通っていたんだ。そしていくつかの出会いを、いつものようにした。もちろん別れもあった。そうしてYさんとの恋愛もした。
Yさんは、あの頃40歳を少し過ぎていた。春、もうこれ以上ないというぐらい、ボクの好きな柄や色のワンピースで、ボクの前に現れた。今でも思い出せるぐらい、それはボクの記憶のスイッチになっている。
ボクは、あのワンピースが好きだったんじゃないのか、そう考えることがある。20歳の年の差や、既婚者だったことよりは、そのワンピースから始まるその裾から見えていた足、そして靴、腕や指、首や顔、髪、それから口やそこから聞こえる声…すべてを好きだという感情が打ち消していた。
「Yいるんだろ」「ここに来ているのは分かってるんだ」という男の声、そして殴られるボク…。「生理なのにできるわけないじゃない」というYさんの声。「この男といて幸せになれるのか」と男はYさんに怒鳴った。そして「よく考えろ」と数分前に入ってきた入口から出ていった。
ボクたちはボクの、その風呂のないアパートにいた。土曜日の21時ごろだったと思う。Yさんが殴られなかったことで、なんとなく救われた。今考えると、たしかにボクといても幸せになれなかっただろう。そして、手を上げなかったその人のほうが、ずいぶんと正しい人だったし、優しい人だった、そう思った。そして今もそう思う。
七ツ石温泉
あれから30年も過ぎたのに、あの夜からも30年過ぎたのに、ボクはあの時のことをキチンと憶えている。そして、七ツ石温泉や荘園、いや別府に来ると思い出してしまう。
浴槽はあの頃と同じでした。ただ、最後に来た時と少し違っていたのは、周辺が整備されていたことです。手作りの看板や花壇なんかが、あたりの景色や歴史、そして人々の記憶に溶け合っているように感じました。