日本人と自動車 – 上級国民で考えたこと
日本人の自動車に対する観念は、諸外国のそれとは少し違う。なぜならば、三種の神器のひとつに数えられた時期があったり、フロントグリルに注連縄を飾っていたことを考えると、道具ではなくて人格化され、あるいは神格化されてきたように思う。現在も新車を買ったら神社でお祓いする人も多い。
アミニズム
自動車だけではなくて、道具や物には魂が宿っている。そう考える人のほうが多いのではないか?
そして、車とは尊いもので、それを運転するにはそれなりの人格も必要とされる、という深層心理が日本人の精神の奥底にあるのではないかと思っている。
自動車が神器だった世代の人たちにとってはステイタスシンボルという薄いものではなくて、自動車を運転すること、所有することは、身分制度での武士の刀のようなものに感じているのかもしれない。
だからいくつになっても免許を手放せない。三種の神器で、武士の刀なのだから、やすやすと手放せない。道具として必要なくなったとしても、身分制度の象徴的な存在、三種の神器なのだから、それを捨て去るということは恐れ多いこと、神罰が下る、祟りが末代まである、なんてその潜在意識の中にあるに違いない。
免許証に宿るもの
免許証制度も同じで、だいたい世の中の免許は、例えば免許皆伝、師範、大師範、というふうに位が高くなり、名誉師範なんて人生の終わりに授けたりすることのほうが多い。
そしてそれはあの世まで持っていくものなのだ。草月流の師範が年齢を理由に免許証を返納しているか?池坊の大師範もだ。都山流の竹林軒大師範だって技術よりは貢献度みたいなもので・・・。
高齢者の車と免許証
高齢者の事故のニュースを見るたびに、18歳からなら、80歳までという年齢制限もあっていいのではないかと思う。お茶やお花の免状とは違うのだから。
免許証制度だけではなくて、乗るのなら古い車を乗り続けるなんてことも止めてほしい。最新のシステムを装備している自動車に乗ってほしい。
どうも「もう人生最後の車だから」なんて自動ブレーキも装備されていない10年も前の車を大切に乗っている人も多い。なんせ道具じゃなくて神器だから簡単に捨てられない。魂も宿っている。
またタクシーをはじめ交通インフラの整備で自家用車がなくても不自由のない街づくり、脱自家用車社会を目指すべきなんじゃないかと、あらためて思う。公共交通だけでは供給不足だって分かり切っているんだから、もっとライドシェアを、もっとUberを、もっとCREWを、なんて思っている。
日本と自動車
政府は自家用車を所有で税金が入ってくる。車検に保険なんて消費も生まれる。しかし、返納されて公共交通依存されると、支出が増える。
上級だろうが下級だろうが、いつまでの元気で働いて消費してくれってことなんだろう。
まあ、いつものことで、経済優先主義の病理でありジレンマだ。国民の生命より自動車産業のほうが大切なのだ。そして「何人死んだんですか?」なんて上級国民である経営者も官僚も政治家も思っているに違いない。
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