三ヶ森タクシー、タクシー業界(1)
「獅子身中の虫」
業界内でそう言われている、三ヶ森タクシー、貞包社長のもとで働きたいと思っている。雇ってくれないだろうか?
タクシー業界に欠けているのは、公共という観点。労働者不足と交通弱者の増加という少子高齢化の問題を棚上げして、自己利益のために自動運転は良いけれどライドシェアは反対する。
「1.5種免許」さえも、どちらかといえば業界のため社会のためになるはずなのに、経営側というよりも全自交労連などの組合側の反発なのか獅子身中の虫にされてしまう。
笑止。
「ライドシェア」とか「交通空白地」とか「社会的責任」とか「公共性」なんて言葉で、接続詞として「危機」とか「未来」とか「利益」なんてものを使い、「一致団結」を導き出す。もちろん主語は「我々」だ。
残さなければならないものはただひとつ公共の足なのだ。いつでもどこでも誰でもタクシーを利用できる便利さと公共性だけが残れば、タクシー会社なんてものは必要ないのだ。というか、そのタクシー会社の存在が国民の利便性と公共性を強奪しているとすると、排除されなければならないのはタクシーのほうで、業界はすでに公共性なんてものを捨てようとしている。
最初はUberそのものが敵であり「EVIL(邪悪)」だった。そのために「11項目の取り組み」なんてものを行ってきた。そのうちそれは「大嫌い」なんて私怨にも思える感情論になって「国家安全保障上、ローカルな移動のデータはローカル企業が所有権を持ってきちっと管理していかないと危ない」なんて海外企業を排除しナショナリズムを煽るような強弁で自社独占を言い出すしまつ。
タクシー、というかモビリティ、移動には、白も黒もなくなったほうが良い。業界はいつも「安全性」を盾に独占しようとするのだけれど、業界の中にいるボクはその業界の「安全性」とか「公共性」なんてものに対して疑問を持っているし、「利益」が優先されていて、例えばタクシーがあるために他の公共交通機関が育たない交通空白地域なんてものも存在するという事実も目の当たりにしては、利用者に選択させろ、そして業界はもうすこし「公共」というものに立ち返れ、そう思うのだ。
業界こそ、国家に対しての獅子身中の虫だということに気づくべきなのだ。
誰が国民の足を奪っているのか。よく考えれば分かるはずだ。安全性なんて呪文を唱えながら「地獄へ堕ちますよ」と・・・業界というよりななにか奇妙な新興宗教のように思えるのだが・・・。