日輪、半島の朝陽は夕陽になった(11日目の5)
2008年10月29日
14時30分に吉良川の休憩所を出発して、奈半利町を目指した。ホテルなはり、がその時のボクの目的地だった。そしてそこには安眠とか安心とか慰安なんてことが約束されていた。楽園がそこにあった。
羽根を過ぎて羽根岬手前から大夕陽…。
あの室戸で見た太陽は、ぐるりと半島を回って、こちら側に隠れようとしている。日輪。
雨、路上にて
哀しみの半島を行く
越えると
朝左手に見えていた朝陽が
夕にも同じ方向に夕陽となって見える
幻覚のような時間
歩くことに倦み疲れ切っているからだろうか
左足の痛みのせいだろうか……、と思う。
繰り返されることで
例えば、呼吸や寝て起きて、食べて排出して、右左右左歩いて
人は存在を信じる。
存在を考える、認識する。
あるいはそれが生きるということ
とすると、半島の陽というのは
そのことをくつがえす
というか、繰り返されることによって実存するものを破壊する、ようでもある。
空不異色、色不異空という思想は、こういった無時間体験、ある種の幻覚あるいは錯覚の中で確認できる、のかもしれない。
なんて考えているところなのだ。
まだまだ歩いています。元気です。
と、日記に書いている。
羽根岬の夕陽を見ながら感じたことだった。この日は朝陽も夕陽も圧倒的でさえあった。体中の痛みは、アドレナリンやドーパミンを脳に分泌させていて、幻覚の中にあったのだろうと思っている。そして風景は「仏性という形而上的世界に昇華させられ」るのだろうと考えていた。
しばらく、沈んでゆく太陽を見つめていた。夜はそこまで来ていた。
(加領郷にて)